« 林 櫻園の視座 | トップページ | 林 櫻園の視座(3) »

2006年10月14日 (土)

林 櫻園の視座(2)

  林 櫻園の思想が幕末維新史で際立っていることを渡辺氏は指摘する。それは政治的な行動を超えた「革命的」視角を持っていたと見る。政治運動とは人事であり、 櫻園は、それをいささかも信じることができなかったためだろう、と渡辺氏は考える。人事すなわち政治運動を超える視点が「革命」的ということである。 櫻園の弟子達の政治的な奔走から彼は超然と距離をとり神事に専念する。

 攘夷ということの意味を功利的レヴェルで受け取ろうとする現存の政治運動のすべてを否定するものであり、何のための攘夷かという誰も問うたことのない問を、彼を「迂腐」としてわらう志士たちの胸元に突きつけるものであった。(同書p149)

 それは政治運動に対する激烈な批判が含まれていて、「その意味ではまさにきわめて政治的なのである」と渡辺氏は説く。

 これは現在の我が国を取り巻く政治状況でも現出している状況ではないか?米国や中国、韓国、北朝鮮の国内で形を変えてあるいは同様に生じている現象ではないか?現在の政治的運動に奔走する政治家や周辺の人々が現在も我が国、彼の国々にもいる。

 北朝鮮は臨戦態勢であろう。それを狂気と批判するだけで事は治まらない、ということを幕末から維新、明治を生きた林 櫻園という「思想家」は既に見抜いていた、と読むこともできる。アカショウビンはスタボロ氏が指摘するように自分の「視座を正当化するスタンス」で言うのではない。そうではなく、自分の視座を客体化し、その可能性を諮るために思索するのである。

 それではスタボロ氏の視座は何処にあるのであろうか?日本人それぞれの視座があろう、しかし多くの同胞は座視しているのではないか?そこで行動を起こした幕末の「草莽」は現在のこの国にいるのであろうか?

 ここを考察しなければならない。そこで軽率であっては事を誤る。櫻園の視角を有している人物は、この国にいるのであろうか?そこをアカショウビンは問いたいのである。

  櫻園の攘夷論が「無謀過激の論」ではなく「唯結局の覚悟を戦に究る」意味のものだ、と「血史」を著した紅涙散民こと木村弦義の言葉に渡辺氏は注意する。そして 櫻園は「開国という選択の前に、一度はおのれの原則に立って西欧列強の脅迫を斥けるという精神過程があるべきだというのであって、その過程をふむ、ということは当然戦いを覚悟するということだというのが、彼の攘夷論の論理構造なのである」(p151)と渡辺氏は説く。

 この林 櫻園と言う人物に言説を巡らす渡辺氏の視角はアカショウビンには実に新鮮で興味深い。それは現今の政治状況と照らし合わせても意味深く読める。それは更にスタボロ氏のおっしゃる丸山眞男の著作や先のブログで挙げた保阪正康氏の靖国考察とも連動する。さらには宣長、篤胤らの「神学」とも絡ませながら考察することになるだろう。

|

« 林 櫻園の視座 | トップページ | 林 櫻園の視座(3) »

コメント

保田與重郎をろくすっぽ読んでいない貴方が語るなかれ。

投稿: ざっつ | 2006年10月14日 (土) 午後 01時39分

ざっつさん、ご返信したいのでメールアドレスをお知らせ頂ければありがたいのですが。

投稿: アカショウビン | 2006年10月15日 (日) 午前 07時18分

人のメールアドレス聞くヒマがあるんならその間にもう一回、保田與重郎を読み返しなさい。聴いて何をする気なんだい?反論かい?

投稿: ざっつ | 2006年10月16日 (月) 午後 10時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/12275625

この記事へのトラックバック一覧です: 林 櫻園の視座(2):

« 林 櫻園の視座 | トップページ | 林 櫻園の視座(3) »