« なかじきり | トップページ | 無給仕事と映画寸評 »

2006年10月26日 (木)

保田與重郎と神風連

 先のブログに書いた江藤 淳の西郷観や川本三郎氏のいう荷風の「滅びの美学」といった視角にアカショウビンは同意しているわけではないことは断っておこう。それは小学生の女児の死に触発されて想起した三島由紀夫の自裁に対してもである。しかし、そういった文化風土の中にアカショウビンも生息していることは現実である。そこで何やら息苦しさを感じる。

 時代の息苦しさが、保田與重郎を読むことで息がしやすくなる、というのもアカショウビンとアカショウビンが生きる時代の逆説なのかもしれない。

  ろくすっぽ保田與重郎を読んでいないと揶揄されたアカショウビンも保田の「文人」としての力量は直観している。渡辺京二氏の著作に触発され林 櫻園に対する関心も湧いてきた。そこで保田の著作を読み返すと昭和15年に書かれた「神道と文学」という文章があった。そこで保田は神風連に言及している。その箇所を抜き書きしておく。

 中世以降の至尊調の詩によつて展かれた國体への自信と、その精神の表現のもつた國民正義は、唯一の批判と云ひヒユマニズムといってもよいが、つひに徳川中期以後に於て民衆化して、その時代の詩人的素質を異常な尊攘志士としての行動家と化したのである。この表現の民衆化の歴史は、これは確然として文明の一つの歴史を示してゐるのである。さういふ時代の詩的表現の運命は、神道家であつた神風連に於て最後的にあらはれたのであつた。私は神風連を理解することは、日本の文の志といのちを解する一つの鍵であると考へる。それは彼らの行為を神道の一つの説から考へるのではなく、さういふ表現に神ながらの詩そのものを見ることを云ふのである。(「近代の終焉」p56)

 神ながらの詩、と言うのが保田與重郎という文人の真骨頂とアカショウビンは読む。それは彼が到達した境地と言ってよいのか?一応は保田與重郎という文人の文学観であり思想なのだと思う。しかしそれは頭がクラクラするような(笑)理解と達観というしかない。それはまた「輪廻転生」という仏教思想に対するアカショウビンの面食らい方とも似ている。その原因は何か?それを探ることが保田や道元を読むアカショウビンの楽しみと言ってもよいだろう。

  この時代の息苦しさを超える何か突破口はないか、と更に模索していこう。

|

« なかじきり | トップページ | 無給仕事と映画寸評 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/12441506

この記事へのトラックバック一覧です: 保田與重郎と神風連:

« なかじきり | トップページ | 無給仕事と映画寸評 »