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2006年10月 7日 (土)

国の歴史

  以下のスタボロさんのコメントに応答しよう。 

>果たして国学思想や神道思想を通して日本という国家の歴史を遡るということで事足りるのか?それらは先の戦争の大義名分に利用され、三百万人強の犠牲を強いた国家滅亡に加担はしなかったか?☆左翼思想云々という言い方をしているが、それはアカショウビン氏自身の座視を正当化するスタンスではないか?☆たとえば中江藤樹、熊沢蕃山、近代の諭吉、兆民、鑑三、天心などの思想や丸山真男の業績などもきちんと踏まえる必要があるのではないか。また広島、長崎の原爆投下の経緯やその後の日米の政治関係、被爆の様相なども認識する必要があると考える。

 「国学思想や神道思想を通す」というのは、それが戦前から、というより明治政府が成立するまでの日本の歴史を通して象徴的な意味を持っているからです。もちろんそれで事足りるとしているのではない。それらが「大義名分」に利用されたことで、それを総て否定することは果たしてよろしいのであろうか、と問うべきであると言うのです。「国家滅亡の危機」に、それらの思想のみが加担したわけではないのはいうまでもない。それを検証する作業は、おっしゃる丸山眞男はじめ吉本隆明やM尾君が挙げた竹内 好、橋川文三ほかの諸氏が1950年代から1960年代にかけて様々に論議してきたことはご承知の通りである。藤樹、蕃山には頼 山陽も加えなければならないだろう。広島、長崎の原爆投下の経緯や、その後の日米の政治関係他を認識することは、また別の文脈と解する。

 左翼思想云々はアカショウビンが「右翼」として論じているのでないことはご理解頂きたい。国学思想や神道思想,三島由紀夫や保田與重郎を持ち出せば忽ち右翼的言辞を弄すると断じるのは余りに単純ではないか?日本という国の歴史で、それらが中世から近世に至るまで仏教思想と対置しながら地下水のような流れを形成していることには注意すべきだ。であれば、それを再考することは現在の靖国論議を稚拙な政治的結末で収束させないためには必要不可欠な作業だと思う。

 

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