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2006年9月27日 (水)

少女(ヲトメ)たちのモーツァルト

 アカショウビンの朝は早い。音楽に集中できるのは殆どこの時間だけといってもいいくらいだ。今朝もあれこれ物色して思わず引き込まれたのがこの作品と演奏だ。K376の「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」。ヴァイオリンは今売り出し中のヒラリー・ハーンという若い女流である。写真を見れば少女と言ってもよいくらいのあどけなさが残るデュオだ。アカショウビンからすると娘のような年頃である。

 この作品をアカショウビンは集中して聴き込んでいるわけではない。これまで、あれこれの演奏を聴いて耳に馴染んでいる程度というのが正直なところだ。ところがハーンとピアノのナタリー・シュー(中国系米国女性だろうかZHUと表記されている)は実に清々しい世界を築いている。作品の素晴らしさもあるが、それを二人の少女(おとめ)が鍛え抜かれた技巧で美しく奏している。そんな音楽を聴けるのは正に至福の時といってよいくらいだ。あぁ、このまま時間が止まり音楽だけが聴こえるということにならないかな。会社なんかになんで行かねばならないのだろう?生活するためにいやいや仕事するというのは何と阿呆なことなんだろう!

 CDには4曲のソナタが収録されているがK526のイ長調ソナタのアンダンテはモーツァルトという男が抱え込んでいた寂寥感というか無常観が心に沁みてくる楽章である。それはモーツァルトが覗き込んでいた深淵とでもいうものが音になったと思わずにいられない箇所だ。

  ある音楽学者はそれを次のように評している。

 「あたかもすべての善人に生存の苦い甘みを味わわせようと、父なる神が世界の一瞬間だけいっさいの運動を停止させたかのような、魂と芸術の均衡が達成されている」。(アルフレート・アインシュタイン 浅井真男訳)

 二人の音楽家は、この作品を彼女たちの人生でこれから何度も演奏していくだろうが、それは歳を経て作品と向き合う毎に人の生のあはれと不可思議を気付かせてくれる稀有の音楽だと思う。

 タイトルについて一言。二人の音楽家をどう表したらよいか迷った。少女では失礼だろうし乙女という漢字も何かしっくりこない。おとめ、という音の響きが乙女という漢字をあてると馴染まないのだ。おとめ、という響きは好もしいのだが。そこでアカショウビンの聴感の元を探ると次の和歌に思いあたった。

 春の苑くれなゐ艶(ニホ)ふ桃の花

 下照(シタデ)る道にいで立つ少女(ヲトメ)

 これは保田與重郎が「この家持の一首にすべてが止まる。初めにして終わりである」と評した和歌だ。

 家持という詩人の視覚、嗅覚ひいては五感を総動員して感動を文字に移した詩人の精神が、保田という批評家の精神によって私たちに伝えられた。そのように、かつてこの和歌をノートに書き留めた時にアカショウビンは思ったのだろう。というわけで何やら奇妙な表題になってしまったことを言い訳する。

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