« 少女(ヲトメ)たちのモーツァルト | トップページ | 私は決心しました »

2006年9月29日 (金)

生存の苦い甘み

  アインシュタインの「善人に生存の苦い甘みを味わわせようと、父なる神が世界の一瞬間だけいっさいの運動を停止させたかのような」というモーツァルトのK526「ヴァイオリンソナタ」アンダンテ楽章への評は興味深い。

 ここで「善人」は「甘い苦味」を知らない、ということが評の前提となっている。そして「魂と芸術の均衡」も音楽にはよくあることではない、というのがアインシュタインの認識である。それは浩瀚なモーツァルト研究の上でモーツァルトの音楽全体を俯瞰したうえでの認識と察する。

 人が「生存」していることは先ず「苦い」もので、何らかの場合にその苦味に「甘み」が加えられることがある。それはよくあることではない、というわけだ。音楽芸術でも、それは稀で、短い生涯の膨大な作品群の中で奇跡的に数多く発見されるのがモーツァルトの音楽だ、というのがアインシュタインの見解と思われる。

 同じ短い生涯の中で膨大な歌曲を創作した人にシューベルトがいる。モーツァルトが幅広いジャンルに亘っているのに対しシューベルトという人は何故歌曲が突出しているのだろうか。

 アカショウビンは若い頃に「冬の旅」や代表的な歌曲集、「死と乙女」という彼の作品を聴きシューベルトという、これまたモーツァルトに劣らぬ「天才」の音楽に浸り、それをたまに聴き返し、夭折の天才たちの稀有の音楽を聴きながら人の生のあはれに思いを致す。

 「父なる神が世界の一瞬間だけいっさいの運動を停止させたかのような」という箇所はシューベルトの歌曲にもそれを聴き取ることができる。「いっさいの運動が停止する」瞬間というのは「死」の比喩のひとつなのであろう。モーツァルトもシューベルトも、その「瞬間」に作品を書く間で遭遇したのではないだろうか?

 しかし、その作品を再現する時に誰もがその「瞬間」を共有できるわけではない。先のハーンや歴史上の才能の幾人かが、才能と弛まぬ修練で、それを経験する準備ができるとでも言えるだろうか。「修練」というのは、そういうものと思う。アカショウビンのような日々の糧を得るために、いやいや仕事をする者にとってそれは異次元の世界である(笑)。

 また、それは「会得」という概念とも呼応しているだろう。「芸術家」は、自己を日常的に鍛え、何かを会得することで或る境地に達する。それこそが芸術の芸術たるところなのではないだろうか?その成熟の結果が我々のような凡人にも、ある時に啓示のように直感される。芸術の至福というのはそういうものではなかろうか?それは音楽に限られるわけでもないだろう。しかし音楽という「時間の芸術」には「瞬間」の何たるか、が時に悟りのように伝わる「瞬間」があるようにも思うのである。

 アインシュタインは、それを「苦い甘み」と表現したのではないだろうか?

|

« 少女(ヲトメ)たちのモーツァルト | トップページ | 私は決心しました »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/12080538

この記事へのトラックバック一覧です: 生存の苦い甘み:

« 少女(ヲトメ)たちのモーツァルト | トップページ | 私は決心しました »