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2006年9月 5日 (火)

外道

 日刊ゲンダイにコラムを書いている斎藤貴男氏の5日付けの文章が面白かった。

 石原都知事が今回のオリンピック招致の福岡との争いの渦中で発言した姜 尚中(カンサンジュン)氏のことを「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と軽口というか、それは侮辱にさえ思える発言をしたらしい。それはアカショウビンも社内の女性から聞いていた。彼女は「本当に失礼な人ですよね」と憤懣やるかたないという風情だった。

 アカショウビンは、またやったのか、とどういう発言をしたのか詳しくは聞かなかった。しかし斎藤氏の紹介している文章でその発言を読むと、それは確かに無礼である。それは侮辱と言ってよい発言であろう。

 斎藤氏のコラムの見出しは「もはやチンピラ小学生以下の石原暴言」。書き出しは「もはやガマンの限界だ」とは既に喧嘩ごしである。「くだらな過ぎるゲス野郎の妄言に付き合わされ、それをコラムで取り上げるのは生き恥さらすようなものだが、仕方がない」ときて、最後は「石原都知事の支持者に言いたい。あなた方は本気でこの外道に共感しているのか。それはそれで自由だ。だとしたらしかし、もう人間であることをやめた方がいい。衷心から忠告させていただこう。」と結んでいる。

 いやいや同感だ。こちらに伝わる石原氏の発言はマスコミが取捨したものとはいえ、小泉の言動と共通する夜郎自大というものである。「外道」とは穏やかでないが批判の言葉としては斎藤氏の尋常でない怒りが現れて痛快でさえある。石原氏が一介の小説家として思想信条で吐く暴言なら、お互いでやりあえば済む。しかし国民注視の場で都知事と大学教授のやりとりとしては石原氏の都知事としての適正を疑う。品性というのは都民のリーダーとして必要な要素であろう。それを欠くというのはリーダーの資格はないということである。

 アカショウビンからすれば人間として下品(仏教用語ではゲボン)である。

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