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2006年9月24日 (日)

彼岸

 親鸞は、父母の孝養のために一返たりとも念仏を唱えたことはない、と言う。その理由は、人は一切の有情とつながっているのだから父母のためにのみ念仏するのは仏法の考えに背く。親鸞は一切の有情の為に念仏するというのである。

 日本の社会に葬式仏教ではない仏教の根幹が残っているとすると親鸞の言にその一つは反映されている。「浄土三部経」は日本と言う国で「宗教」の何たるかを考える上でキリスト教とも比較し考え易い経典だ。それは「他力」という概念で共通する部分が多いからだ。しかし釈尊の思索がそれで尽くされるわけはない。道元の禅も仏法の根幹を伝える思索と行為である。この国で仏教という宗教は葬式に深く関わっているというのが「常識」だ。しかし親鸞や道元の言説は痛烈である。アカショウビンは二十代の頃に道元の「正法眼蔵」を読む中で常識的な仏教観を覆す痛烈な思考に正面した。それは宗派を超えた思索が展開されている、と痛感する。その頃は旧約や新約の聖書も通覧し仏教をキリスト教と比較することも試みた。

 アカショウビンの学生時代は70年安保のあとである。60年安保の苛烈さが旧聞に帰し、その思想闘争の名残を振り返りながら政治状況とは距離をとりながら「人間存在」とは何か、と言う問いを文学や哲学や宗教に求め思索してきたのである。

 そういう経緯で昨今のこの国の現実を見ると、「天皇制」という制度が形骸化しながらも命脈を保っていることには深く関心を持たざるを得ない。

 保田與重郎を読むと天皇や神道に対するウルトラぶりに驚きながらも保田という人の個性と言説の面白さを感得する。天皇制は神道と仏教にも日本の歴史のなかで深く関わっている。現在の政治勢力が戦前から戦中にこの国を席捲した「神聖天皇制」をまたぞろ持ち出してくることはないと思うが、形を変えてこの国の近代史の亡霊を再興させようと画策するならアカショウビンは徹底して違和を主張するつもりである。

 そこでありがちな政治的な言説から抜け出し、そのことを本質的に思考するなら、それは「貴種と庶民」、あるいは「崇高と神秘」といった主題で思索することになるだろう。アカショウビンも本日は「彼岸」で父の墓に詣でた。暮れゆく夕刻の空を背景に読経し墓石を清めた。父が逝った4月は桜が美しい墓苑だが、秋はもの悲しさに満たされる。もののあはれに思いも致す。この世に棲む日々を悔いなくおくりたいものだが後悔ばかりではないかという声もする(笑)。

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