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2006年9月17日 (日)

チョムスキーと天皇

 金曜の夜、だらだらと残業をしている頃に友人のM尾君から電話がきた。飲まないか、と言う。話があるというので会うことにした。いつも行く安い店は避けて一駅歩いた。そこよりは居酒屋でございという店の前を通った。M尾君とは以前によく来た店だ。M尾君はそこが好きなのであった。「おー、S龍がキレイになっている」と目ざとく店内を透かし見て入ろうと言う。

 かつては小汚なかった店内が少し小奇麗になっている。店員はといえば大学生アルバイトのような若い男。以前は外国訛りの日本語を話すビルマかタイの愛想の良い女性がいたのだが。彼女はどこか新しい職場に移ったのだろうか。それはともかく。雑談からアルコールが体内に満ちてくるにしたがい話は当ブログへの文句になった。おう、それは何だ?と言っても、まぁ、話の大筋は読み筋である。

 それは「戦争の罪」のタイトルで8月15日に書いたものだ。

 M尾君はアカショウビンが「天皇」に言及することを怒るのである。「チョムスキーなどを持ち出してわかりもしない天皇の戦争責任などを書くな」と目を三角にするのだ。真顔でアカショウビンの言論を封殺しようというのである。何を!この俄神主が!アカショウビンが天皇のことを書いて何が悪い!アカショウビンはマナジリを決して、この暴言に対峙した。

 飲み始めたころ、M尾(こんな輩に君なんぞいらない!)は先日やっと神主の高い位の試験に受かった、とほっとしたように語ったのである。彼が何故神主になったのか。その詳細は省く。大した志があるわけではない。これは本人も認めている。多少の後ろめたさもあるようだ。そこのところでアカショウビンは友人の人生に文句はつけない。思想と身過ぎ世過ぎは往々にして背馳する。それは是々非々で対するのが人付きあいのマナーというものだ。

 ところが飲むほどにM尾は国粋主義者になる。今どき、そんな言葉は死語である。しかしM尾はそうなのである。今の政治の茶番と重なるようにそうなのである。左翼を呪い「韓国、中国は嫌いだ。お前は何故奴らの肩を持つのだ。お前は日本人なのか?おれは日本人だ」と真顔でいうのである。おい、おいアカショウビンがなぜ彼の国の肩を持たなければならないのだ?勝手な言いがかりはよせ!神主さん、何でそんなにムキになるのだ?

 8月15日のブログでアカショウビンはチョムスキーが辺見 庸氏のインタビューで語った話を引用した。それに腹を立てているのだ。だったら腹を立てた理由をコメントで書けばよい。わかりもしないのに書くな!とは何事だ?文句があるのなら、このブログにコメントせよ。その前の「神々の黄昏」のタイトルで、あるいは昨年の夏からアカショウビンの戦争観はおおよそ本音を書いている。それは一人の国民としてだ。左翼も右翼も関係ない。それを通読して異論があるならコメントせよ。いつでも応答する。

 毎度の酔談で繰り返される話とはいえ展開するに面白いテーマである。近代とは?天皇とは?天皇制とは?日本とは?国家とは?

 それはともかく。昨夜は評判の「UDON」を観た。讃岐うどんは久しく食べていない。映画を観ても食べたいという欲求はさほど生じなかった。ということは凡作か?うーん、そうでもない。少しは面白かった。アカショウビンは「うどん」は好きである。M尾よ!うどんより蕎麦を好む輩に國体はわからぬ!勉強が足らぬ!出直して来い!あれっ、話が飛びすぎか?

 う~む。少し寝酒がまわってきた・・・。チョムスキーと天皇の話は後日。

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コメント

自分のブログだから何を書いても基本的に自由である。しかしながらいつの間にか自分が悪役にされ、邪推と偏見で誤解に満ちた戯言を書いていることに異議申し立て。

①まず話があるといったのは全く別のことであって、たまたま話がそれたまでのこと。
②神主になったことに何の後ろめたさを持っていない。これを邪推という。
③戦争責任を語るならちゃんと自分で考えてきちんと書いた方がいいと言ったまでのこと。普段たいして考えていないのなら軽々しく話題にするほど軽々しいテーマではないと思ったからである。最後に君が言った「たかがブログなんだから何を書いてもいいだろう?」
この姿勢はいけない。

投稿: 師匠 | 2006年9月21日 (木) 午後 06時19分

師匠さんへ。なぜ、それが「悪役」なのでしょう?邪推はしているかもしれないが「偏見」と「誤解」はしていない。アカショウビンは「善玉」を演じているのではない。飲み屋で貴君が言ったことを、そのまま書いただけだ。
 ①②は諒解する。しかし③については自分でこの30数年思考錯誤してきたことを書いているだけだ。貴君からすると「たいして考えていない」かもしれないがアカショウビンなりには考えている。それは貴君も承知の通りだ。
 しかし小生が「たかがブログなんだから何を書いてもいいだろう?」と言ったということは酔談の言とはいえ「誤解」を生ずるだろうから説明する。
 アカショウビンは「たかがブログ」とは決して考えていない。ブログという“道具”は、先の「神々の黄昏」でも引用したハーバーマスやハンナ・アーレントが提出した「公共性」と言う概念を踏まえたうえで書いている。それはアカショウビンなりの取捨選択のうえでの発言である。それは「多少なりとも」公的な場を意識している。
 そのときに言明したように小生の考えは貴君が「邪推」するように「党派性」から出るものではない。貴君の「偏見」こそ、そこにあることは明確に理解したほうがよい。

投稿: アカショウビン | 2006年9月24日 (日) 午前 08時21分

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