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2006年8月13日 (日)

神々の黄昏

 辺見 庸氏の「今ここに在ることの恥」(2006年7月30日 毎日新聞社)という著書で氏は自身の病気や9・11以来のご自身の考えを赤裸々に痛烈に吐露されている。それは恐らく遺書の如きものである。アカショウビンは戦後の我が国の作家のなかで戦後民主主義という言説空間の中で良くも悪くも時代と相対峙した人の書き物として、その人物に失礼ながら深甚の関心をもつ者である。

 「良くも」というのは、戦後の文学あるいは思想あるいは政治空間の中に身を置き、身体を張って思考した人間がそこにいることを痛烈に感じるからだ。「悪くも」というのは、日本という国の「現在」に対して、もう少し柔らかい眼差しで幻視しながら面白い小説を書かれたら日本文学という世界にも新たな視界が開けることになるのだろうにな、といった、まぁ、ないものねだりのような感慨にも行間を読みながら襲われるからだ。

 しかしこの国の現実に、また病に見舞われ死とも直面しておられる氏が悠長なことを言える余裕はないだろう。9・11以降の氏の論説にできるだけ眼を通したアカショウビンには氏の切迫した物言いがいちいち腑に落ち、あるいは、いやまて、果たしてそうか?と再考、再々考する。

 たとえばノーム・チョムスキーに氏が取材した時の記事はプレイボーイ誌でアカショウビンも読んだ。それを氏は最新作のなかで改めて紹介し再考しておられる。

 その記事は近く再読し氏の言説と併せてアカショウビンも再考してみるつもりだ。

 辺見氏の言説と保田與重郎の言説は恐らく噛み合うことがないだろう。辺見氏も保田與重郎の名前を聞いただけで反吐が出る人ではないかと邪推する。しかしアカショウビンの構想は、この両者をひとつの例として比較し、その中間に活路を見出すというものである。政治的立場で、それはありえない戯言であろう。しかし文人として、そこに共通の話題もありえるだろう。しかし、である。江藤 淳の死に方と最後のメモ(世間では遺言と称されているが辺見氏はそれをメモと見る)への違和感は辺見氏の立ち位置を明確に現わしている。それは三島由紀夫の死に対して左翼・右翼の人々が示した狼狽と拒絶と共感と違和の表し方に良く似ている、と思われるからだ。

 それよりも、辺見氏の論説が痛烈なのは次のところである。

  さきほど、「公共空間と不敬神と憲法」というタイトルを口にしました。不敬神。神を汚す。これを私はネガティヴにいっているわけではないのです。不敬神は、思想や芸術表現のひとつの作法として、必要であるといっているのです。たちの悪いなにかが増殖拡大し、いわゆる聖域は温存され、あるいは新たにつくられ、その一方で公共空間が権力ないし権力化した住民や群集に囲いこまれ狭められていく。(同書p128~131)

 「公共空間」とはユルゲン・ ハーバーマスやハンナ・アーレントが唱えた「身分や性別・貧富の差などを超えて、異質な人々が自由に出会い、政治的・社会問題に関して対話を行えるような場を指す」(p123の注)である。アーレントは、個人の自由が表現される場として、ハーバーマスは世論の合意が形成される場として、とらえている、と注釈は記している。そして「両者には強制収容所の歴史を二度と繰り返してはならないという問題意識が共通する」とも。この最後の文は辺見氏が書かれたものか他の人なのかは不明だが辺見氏の視線の届いている場が良くわかる。この論議は、戦後ドイツの思想空間のなかで、そこまでパースペクティヴを開き持たなければ不毛とアカショウビンも同意するからだ。

 辺見氏の言や良し。さりながら、その後を私たち日本人は、どのように展開させていくのか?ここで天皇を神と信じて疑わなかった、と見える保田與重郎の言説と辺見 庸の言説が対立する。それは保田だけでなくキリスト教徒、イスラーム教徒の一神教や多神教のヒンズー教徒、仏教徒の信じる神仏とも対立するのではないか?

 辺見氏の生きた時空間はアカショウビンも同時代を生きる者として共感するところが多いのである。しかし辺見氏の見聞きした「世界」は恐らく他の誰とも異なる。保田與重郎流のイロニー(反語)で言えば辺見氏が「糞バエ」と罵倒する同業のジャーナリスト達と、それは鮮烈に。それを含めて辺見氏は「恥」と広言するわけである。その発言が実に痛烈で面白くアカショウビンは辺見氏の言説に触発されるのである。それはニーチェの言う「神は死んだ」という西洋近代哲学の過程での痛烈さを踏まえた発言であろう。果たして西洋でも東洋でも神や神々は死に果てたのか?現実には洋の東西で実に元気闊達なのではないか。そのかつて居た場所に我々も生きていることに無自覚ではならないだろう。

  昨夜、「紙屋悦子の青春」という黒木和雄監督の遺作を観て来た。雷雨だったから、たぶん初日であっても空いているだろう、と考えたのが浅はかだった。きょうが初日で初回には出演者たちの舞台挨拶もあるとかで満席。3回目を見ようと行ったのだが、これも満席で前の方しか座れないというのでアカショウビンは最終回を観ることにして神田の書店や古本屋を覗いて時間を過ごした。

 幸いに最終回は半分以下くらいの観客で席も気に入った席で観ることができた。作品は実に力の抜けた見事な映像と内容だった。作品に通底する静謐が黒木監督の狙いと祷りを伝えて過不足ない。薩摩弁、長崎弁の軽妙を出演者たちが実に自然に演じていてアカショウビンは何度か心地良い笑いもすることが出来た。会場からも、この重いテーマが夫婦兄妹の会話のやりとりで屈託のない笑いを生んだのは作品が成功したものとアカショウビンは感得した。故人も、どこかで、この客の反応を悦んでおられる筈と拝察する。アカショウビンも笑い、そして泣いた。その物語の背景に思いを凝らせば嗚咽するしかないのである。

 黒木和雄という映画作家が、この遺作を残して亡くなって逝かれたということは、とても幸せなことだとアカショウビンは思う。若い頃のエネルギーは老いた者には懐かしい思い出でしかない。それは映画監督だろうが誰であろうがそうだろう。しかし人は若い頃には視えなかったものが見えてくることがある。それを幻視というのか錯視というのか妄視というのか。前作の「父と暮らせば」(2004年)は父の亡霊との共存が織り成す父と娘の、生きていればありえただろう物語を描いた滋味深くも静謐な作品だった。黒木作品には常連の原田芳雄と宮沢りえが監督の要求に良く応えただろう仕上がりに頭が下がった。

 戦後61年が過ぎ、この国の空気も少しずつか急激にか変わりつつある。世界はもっと激しく変貌している。アカショウビンも夏という季節には国の歴史と自身の現在の立ち位置を静かに再考したい衝動が高まるのを抑えられない。それは日本人を通して諸外国の人々、あるいは大げさかもしれないがヒトという生き物、人類、ひいては民族、宗教、思想といった領域まで思考は広がっていく。

 話が錯綜して申しわけない。いずれにしろ夏に読む本や映画の感想を通して8月を通過していける貴重さを無駄にはすまい。

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コメント

>作品に通底する静謐が黒木監督の狙いと祷りを伝えて過不足ない。

同感です。
全体のトーンはストイックなのですが、辛いのに見合いの場を設ける点に、ちょっと押し付けがましさを感じてしまったのです。
その場のセリフなども、面白いのですが、引っかかる・・・・・・。

コメントに感謝!

投稿: マダムクニコ | 2006年8月17日 (木) 午後 11時53分

「父と暮らせば」は、今年の春に、平和映画祭で観ました。
ブログにはアップしていませんが、心に残る名作です。

「美しい夏キリシマ」は、ブログにアップ済みです。

「紙屋悦子の青春」および上記2本のなかでは、「父と暮らせば」が一番いいな、と思います。

投稿: マダムクニコ | 2006年8月21日 (月) 午前 01時12分

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