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2006年8月20日 (日)

戦争の罪(続き)

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げ出さないで手をこまねいていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には適切に理解ができない」。

  ヤスパースが説明する「形而上の罪」である。

 昨夜、黒木和雄監督追悼の特集をしている池袋の新文芸座で「美しい夏 キリシマ」(2002年)を観てきた。併映は「父と暮らせば」(2004年)である。前者をアカショウビンは見逃していたので目的は同作品だった。8月12日に、遺作となった「紙屋悦子の青春」を観た後の余韻が残っているなかで、これは釈然としない仕上がりだと不満だった。何故か。もちろん、凡百の作品と比べて決して作品の質が低いわけではない。「紙屋悦子の青春」には余計なものを削ぎ落とした力の抜け方があった。しかし本作は、あちらこちらに力瘤が入っているのではないか?戦死した夫の妻の浮気のことなど、あれこれ話を詰め込み過ぎているのではないか。あの時代を再現し当時の風景や人々の姿を映像であれこれ描くことは一つの手法だ。観客は面白くそれを観る。作品を作る者にとってそれは「サービス」と考えるのかもしれない。しかし、それで喜ぶ観客と白ける観客がいることに黒木という映画作家は鈍感ではないはずだ。主人公に監督は少年時代の自身を託しているのであろう。少年の繊細な感性と周辺の人々の描き方は劇映画の手法である。しかし「父と暮らせば」は異なる。

 それを観たら目的は達せられたわけだから帰ろうと思ったのだが、2004年に観た「父と暮らせば」に感銘したアカショウビンは「美しい夏 キリシマ」と比べてみようと「父と暮らせば」を改めて観て何事かが腑に落ちた。

 この落差は何だろう?

 「父と暮らせば」という作品は原爆で死んだ(殺された)父が幽霊となって、生き残り3年たち年頃になった娘の前に生きているように現れて娘のことをかまう、という話である。原作の作品は2年前に映画を観た後も読んでいない。だから、これは映画を観た感想である。それにしても、14万人が一瞬にして、その後も原爆症で死んでいったという事実を、このように伝える手法に脱帽する。この作品の見事さは、あの非道な殺戮を、声高にではなく、死者の声を借りて、生き残った者が、生き残って良かった、でなく、生き残って、死んだ人たちに申しわけない、と思う心根を、死んだはずの父親が、実に饒舌な、まるで日本的な幽霊・亡霊の類と異なる姿で娘を叱咤、励まし気遣う二人劇にある。それは芝居として演じられるのが自然なのかもしれないが黒木監督とスタッフは見事に映像に留めたと感嘆する。

 特に宮沢りえの秀演が光る。あわれな娘役を演じて立派というしかない。また父親役の原田芳雄の助演の功績も大きい。仕事先では寡黙でおくての娘を饒舌に励ます。二人の会話に現れる哀しみと後悔とユーモア、これがこの作品の命と痛感する。饒舌な死者と、慎み深すぎる生者の娘。この設定を映画作品として撮りあげた監督の力量と、それにこたえた出演者の演技に頭がさがるしかない。

 ヒロインが最後に発する「おとうたん ありがとう ありました」。この不思議な広島弁の響きと奥行きは映像に向き合わなければ伝えられない。

  「美しい夏 キリシマ」から2年、この変化にアカショウビンは驚愕し瞠目する。それは、まるで悟りのような変化のようにも思える。

 蛇足だが付け加えておきたい。「美しい夏 キリシマ」では登場人物の殆どが深刻な憂い顔である。女たちは静かに、男たちは声高に怒鳴り、わめく。しかし「父と暮らせば」という作品を貫くトーンにはそれがない。代わりに広島弁のユーモラスな会話から生まれるおかしみとあはれがある。時に慎み深く、背景の歴史事実が映像で出現する。そこで笑いの裏に潜む非道に対する憤りと怒りと諦念が生じるのだ。

 黒木作品の最後の2作は平凡な日常を描きつつ鎮魂の祷りが深く込められている。それはスクリーンを観る者の心に静かに問いかけてくる秀作とアカショウビンは感嘆する。

 そこで「他人の殺害を阻止するために命を投げ出さないで手をこまねいていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には適切に理解ができない」、というヤスパースの所論は、どういうことになるのだろうか?

 戦争とはいえ、その威力を知りながら広島市民と長崎市民の恐るべき殺戮を敢行した米国政府と、そこに至らしめ無辜の民の残酷な死を阻止できなかった大日本帝国の軍人や天皇、日本国民は「形而上の罪」を自覚したであろうか?時代は移り、日本国がイラク戦争に加担したことを阻止できなかったことをアカショウビンは形而上的に適切に理解できたであろうか?

 事は当時の日本とドイツの地理的、歴史的相違として片付けてよいわけではあるまい。

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コメント

戦争は人を殺すためのものです。何のために殺すかって?決まってるじゃありませんか。口減しのためです。島国日本がその土地の生産物で養えるのはせめて3000万ぐらいです。それ以上は戦争で死んでもらうか、移民(棄民)で南米でも行ってもらうしかありません 。

投稿: aozora_masumi | 2006年8月20日 (日) 午後 01時16分

うーん、aozora masumiさん、簡潔すぎて応答が不能です。もう少し詳しくね。

投稿: アカショウビン | 2006年8月20日 (日) 午後 02時11分

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