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2006年8月 9日 (水)

8月の映画寸評

 ① 評判のアレクサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」を観て来た。秀作だと思う。劇映画でありながら「天皇の時間感覚」とでもいうのか、外国人ならではの視線で表出された独特の雰囲気が興味深い。「まったり」としたキャメラの長回しによる効果が「天皇の時間」を表現して成功していると思う。音楽もワーグナー、バッハを巧みに使い分けて厳粛さを表現していた。

 あの時代を切り取る上でたとえば、今村監督のパワーとは異なる調子(トーン)で実に静謐な映像を実現したと感服する。「天皇」という別格な「存在」への畏敬と好奇心が深い関心と敬意をもって描かれている。現在の日本国民の多くが、昭和天皇をチャップリンと似ていると戯画化した監督に「不敬」を感じることもないだろう。それを良しとするのか、慨嘆するのか。視角の差はあるだろうが、誠実に外国人という視点から描いた作品の質の高さは一目瞭然だ。

 昭和天皇を演じたイッセー尾形は好演だ。それはコメディアンのビートたけしが映画作家として見事な才能を発揮しているのと同様に俳優として見事に演じたと思う。しかし皇后を演じた桃井かおりとの掛け合いは桃井が間違えていると思う。監督は日本人スタッフの意見をもっと突っ込んで聴きとり桃井を演出すべきだった。米国映画の「サユリ」では見事な演技を見せたのが、このロシア映画では残念ながら駄演としかいえない。「アドリブ」的な演技は恐らくイッセー尾形の発案で、監督も了承したのではないか、と邪推される。しかし皇后を演じてそれは失敗している、とアカショウビンは残念だった。

 ② 「島ノ唄」で島尾ミホさんが蝶のことを奄美では聖なる存在と見なして、ミホさんは蝶に出会うと、お辞儀をします、といった話が興味深かった。蝶を「はべら」あるいは「あやはべら」ともミホさんが生まれ育った加計呂麻では呼んでいたと言う。それは三角の徴で着物や住まいの中に折り込まれ表現されている、とも語る。吉増さんの願いに応じてミホさんの母親が唄ってくれたという「子守唄」を唄う。歌詞の大意と部分的な単語はアカショウビンにも聴き取れたが内地の人には全く異国語としか聴こえないだろう。しかし折口信夫の明察では琉球語と日本語は同族語で奄美の言葉もそれは同様であるのだから、内地の人も聴き取る意志があれば、そこに新たな発見がある筈だ。

 また撮影当時、92歳であられた里 英吉さんの蛇皮線で奏でられる民謡とそれに瞑目して耳傾ける吉増さんの姿も良かった。浜辺で黒糖焼酎を飲みながら唄い興ずる映像には、この作品の真摯な雰囲気の中で唯一の瑕をアカショウビンは看取した。つまり「ヤラセ」だと思ったのだ。しかし里さんのかき鳴らす蛇皮の音と、合いの手を入れる里さんのお嬢さんの声はアカショウビンも血の沸き立つのを禁じえなかった。

 この作品は空の風景を見事に撮りきっている。台風銀座と呼ばれる奄美の千変万化する空の美しさと面白さを映像で切り取っている。それは、おそらく田中一村も魅了された奄美の空と思われる。キャメラも一村の作品を明らかに意識していると推察した。

 島尾敏雄と出会った当時の昔を、ミホさんは想い起こしながら吉増さんと話を続ける。その姿を見ているとアカショウビンも、この夏からでも久しぶりに島尾敏雄の作品を読み直そう、という衝動に駆られた。

 8月17日から黒木和雄監督の追悼特集も池袋の新文芸座で上映される。また岩波ホールでは遺作となった「紙屋悦子の青春」も近く上映されるので楽しみだ。きょうの長崎、15日の敗戦の日を通し政情も賑やかになってくる。アカショウビンも先に紹介した淺野 晃の詩集や夏に読み返すのが習慣となっている吉田 満の戦後の随筆と共に島尾敏雄の諸作品も読み直しながら、この夏を通過していきたい。

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