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2006年7月 3日 (月)

眼差しと空間

  フーコーの思想の特徴を小林康夫氏は次のように要約している。参考になると思うので引用させて頂く。

 「眼差しと空間-フーコーの思考のもっともオリジナルな特徴こそ、その空間的なアプローチ、人間的な意味の以前にある、そこから意味が生まれてくるような空間へと注がれた眼差しではなかったか。そしてさまざまな不連続線や力線、垂直線、さらには空白のタブロー、奇妙な立体といった殆ど幾何学的な対象空間を見つめる眼差しは、意味以前というその位相に正確に対応して、それ自身、まだ身体を持たないような眼差しではなかったか。

 (中略)

 身体的な実存は、けっして無垢ではなく、すでにその誕生に先立って、「歴史」と「権力」と「知」の共同作業がつくりあげているさまざまな力-しかも否定的で抑圧的な、ときには排除的な、さらには抹殺的な力-によって囲まれ、貫かれている。それはフーコーにとっては理論的な仮説ではなく、かれのすべての思考がそこから要請されるような実存的な根拠ではなかったか。」 」(「フーコー・コレクションⅠ狂気・理性」2006年5月10日 ちくま学芸文庫 p434)

 「『夢と実存』への序論」の冒頭でフーコーはルネ・シャールの詩『断固たる分割』を掲げている。

 「人間の時代に、私は、生と死を隔てる壁の上に、次第に裸形の度を深めるむき出しの一本の梯子が立ち延びていくのを見た。その梯子は、比類ない引き抜きの力を帯びていた。その梯子こそ、夢であったのだ・・・。かくして暗闇は遠ざかり、<生きる>ことは、過酷な寓話的な禁欲の形をとって、異常な諸力の征服となる。われらは、それらの力に横切られていることをひしひしと感じてはいる。だが、われらは、誠実さ、厳しい分別、忍耐を欠くがゆえに、それを不完全にしか表現しない」。(同書p9)

 「<生きる>ことは、過酷な寓話的な禁欲の形をとって、異常な諸力の征服となる」。

 フーコーが暴こうとしたのは、人間が「過酷な寓話的な禁欲の形」をとることによって存在している、ということではなかったか、と思うのだ。

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