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2006年7月27日 (木)

音の楽しみ

 先日、仕事で山梨に行き甲府の駅前のホテルで一泊した。初めて入るホテルだった。料金を聞くと高い。アカショウビンのように薄給会社に勤めるいじましいサラリーマンは出張時には安ホテルで少しでも出張費を浮かすさもしい行動が習性になっている。 ところが今回は後輩を同行している。値段を聞いて他をあたるというのは沽券に関わる。まぁ、いいか、と宿泊することにした。

 夜にチェックインするときは気付かなかったが朝食をサロンでとる時に驚いた。凄い音がするのである。それが何と飼っている鈴虫の発する音なのである。いや、その音の凄いのなんのったらないのだ。それは騒音といってもよいくらいだった。それでも音源を目にすると心改めたのが大和男子(おのこ、と読んでいただきたい)である。突如、世界は古今、新古今の、もののあはれの世界にワープしたと思われよ。その騒音の主が、秋に、か弱く鳴き人々のあはれをさそう、あの虫のお姿か、と思うと知らずマジマジと、暫し食事の前に彼らの生態を童心に返り観察したのであった。

 我が大和民族は、虫の音を音楽のように聴く、世界に稀なる精妙な感性を有する民族というのが宣長翁以来、いや万葉、天平、白鳳の往古からの誇りであった筈だ。いやしくも和歌を詠み、國学を学んだ貴顕は言うに及ばず田夫野人までもが秋の夕べに季節の移ろいに感慨を抱き虫の音に目を細めそれを楽しむ。それが畏れ多くも國体を拝する民草の実存ではなかったか?

 しかるにアカショウビンは鈴虫が梅雨時に鳴くという事実を知らなかった。恥ずべきである。これでも小学5年生の頃はファーブルに熱中し昆虫学者を志したこともあったのである。

 話は少し飛ぶ。先日、さる現役の女性ヴァイオリニストのブログで、私は一部の作品を除いて殆どモーツァルトが嫌いなのです、という書き込みを見て暫し呆然となった。それは鈴虫の鳴く音に驚いた時よりも、深く心の奥で哀しみを覚えガッカリしたのである。生誕250年(だった筈だが)の馬鹿騒ぎはさておく。いやしくも現役の演奏家がモーツァルトを嫌いという言葉を吐くところが立派である(なんのこっちゃ)。それは確かに恐ろしく勇気ある発言である。アカショウビンは最初にその書き込みを読んだ時にあっけにとられた。しかし、よくよく考えてみると、それは実に「常識」を覆す天晴れな言説と思えた(それは今だが)のである。

 アカショウビンからすればモーツァルトの音楽を楽しまない人々は、鈴虫の鳴く声に、もののあはれを聴き取る感性を持たぬ異国の蛮族と同じ鈍感さ、と断じるしかない。しかし、時の首相が軽薄に道化の如く、かつての戦の相手の地を訪れ、彼の国の野蛮で軽薄に腰振り歌う破廉恥歌手の電気音楽に媚びる姿が、この皇統燦たる國の現実なのである。アァ、國体の衰滅はここに極まれり。一人の若い女流演奏者がモーツァルトが嫌いと恥じなく発言し、オーケストラの一角に陣取り音を出す。これが、この國で奏される西洋音楽の現実なのである。三島氏が愛想をつかしたのもむべなるかな。今やもって瞑すべしなのか?新時代の馬鹿騒ぎに和して同じるのが「大人」の器量なのか知らぬ。何、どうでもよいことではあろう。

 しかし、アカショウビンは哀しいのである。そこで今宵は、モーツァルトでなく我が邦の一柳 慧氏の作品を聴きながら白河夜船といこう・・・。

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