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2006年7月15日 (土)

感応道交

 エリー・ナイという女流のドイツのピアニストは我が国であまり知られていない。アカショウビンも昨年、たまたま、まとめて発売された演奏集を買って聴き驚愕したうちの一人だ。その印象を友人や、このブログでも道元の「感応道交」という、それは禅の用語だが、その言葉がもっともぴったりする、と思い昨年CDを聴いたときの衝撃を伝えた。

 先日、評論家の宇野功芳氏の近著を読み、宇野氏がナイのことを手放しで褒めておられるのに同感した。休日の午後に昨年驚愕したベートーヴェンの「月光」を聴き改めて凄いベートーヴェンを聴き直した。

 それは、やはり凄い音楽だ。昨年、アカショウビンは、その演奏を神韻縹渺の思いで聴いた。それは殆ど神がかった演奏と思えた。高校生から大学の頃にフルトヴェングラーのレコードに震撼させられて以来、西洋クラシック音楽とは未だにつきあっているが、50を過ぎて、聴き馴染んだ名曲をまるで新しい作品を聴くように聴いたのはエリー・ナイの「月光」である。こういう音楽家が存在して半世紀を経て、後に生を受けた私たちに驚くべき経験を齎してくれる事に感謝しよう。

 「音楽と政治」という主題はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの人生を通して戦後も間歇的に話題にのぼっている。フルトヴェングラーについては熱烈なファンだった丸山眞男氏が晩年に新書で、その思いを語ったのをアカショウビンも読んだ。その主題は今も洋の東西で熱く論議されている筈だ。

 エリー・ナイという驚愕する優れたピアニストの録音が、しかも若い頃の録音は一部しかなく、晩年の演奏がやっと音楽好きに届くという経緯は、おそらくドイツという国での事情が絡んでいるのだろう。

 ナイはナチスとヒトラーに同調したと聞く。それで「干され」たのではないか?それでもドイツの人々の間で演奏の機会が持たれ、聴き継がれ、語り継がれたのではないか?それが12枚のCDとして死後に発売され極東に棲む音楽ファンの耳と精神にも届いたのだ。

 かつてナイの実演に接した吉田秀和氏は、聴くに耐えなかったと記されている。氏は技術面の稚拙に辟易し途中で席を立った、と記しておられる。またその時の演奏会を、女神の演奏をありがたく聴く、まるで宗教的な奇妙な場だった、とも記しておられた筈だ。しかしCDで聴くエリー・ナイというピアニストの「音楽」はアカショウビンにとってフルトヴェングラーを聴いた時の驚愕を共通すると言ってもよい、あるいは、それを越えるかもしれない経験だったことは記しておこう。

 さぁ、夏がきた。生命が萌え出ずる季節にアカショウビンも残された時間を生き抜こう。この世に棲む時間を思い残すことなく、暑さにヘロヘロになりながら。

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