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2006年7月20日 (木)

存在しない?

 仏教で説く「一切空」とは何か?禅者たちの「声」の修行過程で、それは言説というのか、無茶というのか、はたまた暴言というのか。ともかく、そこで「何か」が「生じ」た、あるいは「現成し」た、「生成し」た、とでもいう瞬間が「在」るとされる。それと「一切空」の関わり合い方は、どのように説明できるのか?

 また、それと西洋近代哲学の、次のような思索は、どのように呼応しているのか?

 「事物世界の本質には次のことが属している。すなわち、この事物世界の圏域においてはいかに完全な知覚といえども、或る絶対的なものを与えることはないというのが、それである。このことと本質的に連関することであるが、たとえどれほど遠くまで経験が及んだとしても、そうしたどんな経験についてもみな、そこでの所与が、その所与の生身のありありとした自己現在についての不断の意識にもかかわらず、現実存在し「ない」ということの可能性の余地が、残されているのである」。

 現実存在しない、ということは不在なのか非在なのか?これは禅の公案ではない西洋近代哲学の現象学と存在論、認識論の思考である。それと仏教で説く「一切空」とは、どのように異なり、どのように重なるのか?

 先に言明したように、このブログでは、禅の公案のような、その部分だけを見れば理解の難しい文章が多々出てくる。しかし、それは衒学的に引用しているわけではない。アカショウビンの思索に不可欠だから引くのであることをご承知おき頂きたい。我々の日常は水のように流れ過ぎてゆく。そこをたまに蛇行するというのか、酩酊するというのか、決して明晰ではない、むしろ韜晦するのだが、生きるのに必要な状態や瞬間がある。そういう時空間の「現成」とは何か?そこでアカショウビンは暫し立ち止まり愚考するのである。

 存在しない、とは、無なのか?それは「一切空」とどう関わり合うのか?

 察しの良い方は、それは死のことを頭の隅で考えているのではないの?とスルドク指摘されるだろうが、そうでもない。私がこの世を去っても世界は相変わらず存在し続けるだろう、という、それはとても普通な、あきらめ、と言おうか、希望と言おうか、あえていえば論理的推量は果たして正しいのだろうか?「歴史的」に見れば、それは動かぬ真理である。親や親戚、先輩、友人が亡くなっても彼らの周りの私やあなたは、こうして生きていて、世界は存在し続けているではないか。しかし、死んだ側からすれば、死後は全く別の展開に入り、始まりの状態に入っているのかもしれない。

 先日、仕事先の若い社長が突然「輪廻転生が・・・」と語り出し、おっとっとっとと対応に面食らったことがあった。彼の薀蓄はおそらく若い経営者向けのセミナーか何かで吹き込まれた精神論をまことしやかに教示してあげるよ、といった語りだったが。

 「輪廻転生」という仏教用語はアカショウビンのような未熟者には迂闊に使えない。そういった壮大な主題でなく、もっと私という身近で不可思議な存在を通して何か説明できることがあるのではなかろうか。そう更に愚考しよう。

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