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2006年6月11日 (日)

沖縄と国の品格

 昨日はNHKで額賀防衛庁長官と政府のブレーンである拓殖大学の森本 敏教授と沖縄の人々、本土の人々が普天間飛行場の移設問題で論じ合っていた。きょうは丸木美術館を建てられた館長の佐喜真道夫氏のインタビューが放送されている。

 この国の品格を考える上で藤原氏の論に補足し、或る意味で異論を唱えるとすると、この沖縄の歴史をどう捉えるか、という論点が欠かせない、と再認した。

 佐喜真氏が話すように沖縄戦は空襲だけの本土の戦争経験と異なり、元寇の時以来と思われる、その比ではないであろう過酷な地上戦を経験している。この違いを多くの日本人は認識しているのだろうか。子供たちや若い両親にとってそれが十分に伝えられているとは昨今のこの国の言論を読み聴きしていると決してそうは思えない。昨日のテレビでの論争や佐喜真氏の語る経験を通して痛烈に実感するのは靖国だけではなく、広島と長崎に落とされた原爆の記憶と共に沖縄戦の風化が現実のものとなっているのを痛感する。歴史の記憶の持続の難しさは現実のものである。

 広島で生まれ原爆の絵を描き続けた丸木夫妻が沖縄戦の絵に生涯の最後を費やしたという事実は偶然ではないだろう。広島と沖縄、この国の歴史が経験した二つの場所の歴史を忘れてはならないと思う。

 昨日の番組で日本政府を代理して話す額賀防衛庁長官の姿と語りには誠実さも感じられる。しかし、それは政治家の能弁でもある。その言説を聴く日本人や韓国人、中国人、米国人、また沖縄の人々の表情に見られる疑いや苦渋、あるいは嘲笑と、古老が淡々と語る語りと表情には、この国の背負う切実なものが集約されているように感じた。

 それにしても佐喜真氏が丸木夫妻との出会いを通じて語る話にはヒトの経験の根幹と急所が息づいている。絵画は音楽の聴覚とは異なり視覚を通じて現象的に真実を伝える芸術である。それは田中一村の生涯と作品を見てもそう思うのだ。

 昨夜から、きょうにかけてテレビ番組や先日購入したDVDで小津の「早春」という昭和31年に封切られた作品を見た。「早春」はサラリーマン亭主の浮気による夫婦の危機を物語の主軸にしながらも戦後の日本の復興ぶりも映像に留めている作品だ。そこには小津の、戦後の社会や若い人々の考えなどに対する、さりげない批評も折り込まれている。そのような映画作品と現在の人々が沖縄をめぐって諸説を論じる映像を見ていると思案はあれこれ錯綜する。

 そこでは「国家」の品格について藤原氏の視点には賛同しながらも異なる視角について考えざるをえない。すると、この国にとって靖国ばかりでなく広島と沖縄の歴史を通じた心を理解しようとする意志のない言説は無効であろう、とアカショウビンは確信するのだ。それは沖縄へ過酷な集中攻撃をかける米軍に対し悲壮でかつ愚劣ともいえる特攻をかけた戦艦大和にも思いは至る。沖縄戦と大和の特攻は、あの戦争の中で、異なる事実ではない。そこには、日本という国の意志と歴史が象徴的に浮かび上がっていると思われる。なぶり殺しにされた沖縄と大和の姿は呼応しているのは言うまでもない。54万人の米軍が攻撃した沖縄戦の地獄にどれだけ思いを寄せられるか?それが現在を生きる日本人にとってはリトマス試験紙となっているのではないか?

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