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2006年6月14日 (水)

田中一村と蝶

 社の後輩のT島君がベトナム出張で買ってきてくれたお土産を喜んだ。それは現地の蝶を展示したものだった。その中に懐かしい蝶があったのだ。THE GREAT EGGFLYと記されているがリュウキュウムラサキだ。

 アカショウビンが小学生の時の採集コースの、それは田中一村が棲んでいた有屋という集落に向かう途中の傍道だったと記憶する。一本の木に蝶が群舞していたのを思いだす。それがリュウキュウムラサキだったか。いや、よく記憶の光景の細部を辿ると、それはアカボシゴマダラだったのかもしれない。それにしても、その乱舞する姿は本当に美しかった。

 本土の蝶と異なりリュウキュウという名の付いた蝶は独特の華麗さを放っている。それは蝶採集に熱中するアカショウビンたち採集仲間の垂涎の的だった。リュウキュウムラサキもその憧れの蝶のうちの一つである。日曜の朝が晴れていれば嬉々として、小学生には不釣合いの本格的な補虫網を手に出かける。誇らしげにサムライの槍のように補虫網を抱え、あるいは肩にし、憑かれたように目的地に向かう。腰には採集した蝶を保存するパラフィン紙を入れた「三角缶」。仲間の何人かで、時には一人で、ハブも恐れず(今思い出すだにチョッと怖い)採集コースの山に分け入る。それは大人から見ると変にませた鼻持ちならない子供であったろう。しかし小学校高学年時代のアカショウビンの生きがいは蝶採集と草野球に尽きた。

 その展示箱の数々は中学にあがった頃に忽然、殺生は良くないのではないかと子供心にも思い、自宅の前の狭い、それは庭というのが憚られるほどの場所に墓を作り埋めた。以来アカショウビンは蝶を採集しコレクションを作ることは止めた。

 中学時代や高校に入ってからも蝶を追ってたまに衝動的に山に入ることはあった。しかし何で覚えたのか魚釣りのキャッチ&リリースと同様に蝶を捕獲しても少し眺めてから逃がしてやった。蝶の命を通して生き物の命というものに殊勝にも目覚め出したのかもしれない。

 一村の作品にはツマベニチョウ、アサギマダラ、イシガケチョウといった南国の蝶がさりげなく精密に描かれている。一村のような本土の人には植物や鳥と同じように珍しく新鮮だったのだろう。ツマベニチョウは確か生息北限が九州南端だった筈だ。それは白とオレンジ色のコントラストが、この世のものと思えないように美しい蝶だ。一村の作品に描かれる蝶は実に生き写しという描写である。アカショウビンが田中一村という画家に興味を持った理由には、その蝶の描写に魅入られたこともある。

 ベトナムに仕事で行ったのは10年以上前だ。その何年か前にはマレーシアに行った。たしか、そのときに観光客向けの免税店で現地の蝶を展示した商品を販売していたのを思い出す。そこには小学生時代に採集したヤエヤマ(漢字で書くと「八重山」だ)ムラサキも展示されていたのではなかったか?リュウキュウムラサキほどの華麗さはないが、沖縄の八重山諸島にのみ生息する蝶である。南西諸島や本土へは台風で運ばれ風蝶と呼ばれる希少な採集記録しかない珍しい蝶だった。それをアカショウビンは捕獲した。小学校5年生の時だった。

 その場所は浦上という集落から、「国立療養所 奄美和光園」という施設のある有屋に至る道のキリスト教会があった近くの田圃だった。地元の人々が「和光園」と呼び慣らしていたその施設はハンセン病の患者を隔離していたところだ。国の強制隔離政策が1996年に廃止された現在「和光園」はどうなっているのだろうか。一村はそこを訪問し1枚のスケッチを残し「未明 船上より初めて黒き奄美の姿を見る 遥けくも来つる哉の思ひあり 昭和三十三年十二月十七日 和光園にて 田中 孝」(「NHK日曜美術館 黒潮の画譜 田中一村集」昭和61年2月1日 松元邦暉氏の寄稿文の中 p5)と書名している。一村はその「和光園」近くに居を定めたのである。

 沖縄や奄美は世界の蝶の宝庫のひとつと称される台湾につながる、かつて島尾敏雄が「琉球弧」と命名した島々である。一村は島尾敏雄を読んでいただろうか?その頃は島尾敏雄もご家族と共に奄美に移住し名瀬市の図書館の館長として住んでいたはずだが。

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