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2006年6月28日 (水)

青葉茂れる

  小津安二郎の「彼岸花」(1958)という小津にとっては最初のカラー作品で、中学の同級生たちが同窓会の宴会で「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ・・・」という「大楠公」の歌を、自ずと皆が唄いだすシーンがある。アカショウビンは久しぶりにこの作品をDVDで観直して面白く思い、そのシーンに心安らいだのだった。音楽を担当した斎藤高順と小津の絶妙の呼吸がそこには現れている、と感嘆した。

 先のブログに苦言が呈されていたので、あれこれ少し説明してみようかと思ったが、ぐずぐずしているうちに、あるHPに書き込んだ「彼岸花」の感想を読み直してると、そのシーンを思い出した。うん、これをマクラに使えば何かスタボロ氏にアカショウビンの意図するところを伝えられるかもしれない、と愚考。ところがさっぱり考えは進展しない。それでは、とさっさと諦め、とりあえずご返信申し上げよう。

 スタボロさん、先のブログはアカショウビンにとって、言ってみれば禅の公案のようなものと理解していただければよいと思います。フーコーの言説は確かにフーコー的語彙が多く、それを突然引用しても面食らうのが当然とアカショウビンも恐縮致します。しかし、ここのところの身辺雑記だけでは読んでるほうも書いてるほうもつまらないと思い「直感的に」、ちょうど読みかけて触発された本の面白い部分を書き抜いて考えてみよう、と思ったしだい。「直感精読」という、これは将棋の手の読み方なのですが、加藤一二三元名人の至言もあります。

 フーコーという、それは哲学者なのか精神分析医なのか学者なのか思想家なのか、そのいずれでもありそうな人の言説は難解だが面白いのであります。それはホントにそうなのである。フーコーの思索は独特なのである。それは単に難解というものではなく、アカショウビンも含めておそらく多くの人の、また生半可な哲学者や精神分析医や学者や思想家たちの思考の常識をひっくり返す衝撃を持つものと言ってもよいでありましょう。

 当ブログは仮にも「存在をめぐる思考」と大風呂敷をひろげてあります。じつを申せば、しがない日常のなかで熟考したい事どもというのは、正にそのようなことでもあるのです。しかしいかんせん、俸給生活の哀しさ。日々の仕事にかまけ、この世に棲む時は、この歳になりますと加速するかのように無常に過ぎてゆきます。しかし非力ではあれ蟷螂の斧の如く何者かに身構える。アカショウビンがこの世で生きる姿勢をとりあえず譬えれば蟷螂であります。まぁ、雌に食べられることだけは御免被りたいのですが。

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