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2006年5月28日 (日)

アダン

 N君から頂いた招待券で五十嵐 匠監督の「アダン」を観て来た。榎木孝明氏の田中一村役も、キャメラも監督も、脚本を書かれた松山善三氏も渾身の力を振り絞って驚くべき短期間の間に撮りあげた秀作と思う。

 この作品が遺族との確執も生じさせているという話も聞いた。しかし、多少なりとも、その作品に接し、生き様と死に方に関心を持った者として、田中一村という、市井の人々からは変人とも見られかねない画家が、どういう作品を残し、終に異郷の地で息絶えたか、という消息と人となりを描いて余すところのない仕上がりと感得した。

 南画の天才として将来を嘱望された田中 孝という絵描きが、売り絵でない生涯の傑作を描くべく渡った奄美で、彼は極貧とも言える貧窮のなかで作品を描き続けた。それはあたかも魔性にとり憑かれたように、とも言える。隔絶した南の島という異郷の土地で、狂気とも誤解されかねない姿で対象を求め、それを捉えると飽きなく対峙し己の眼を信じ奄美の自然を画布に留めた。その執念と妄執ともとられかねない気迫は恐らく俗を超越し、何か超然とした物を見据えることのできた者にしかわからぬ境地とも思える。

 それは、たまたま一村という画家の近くで或る時に行き交ったかもしれず、同じ時空間を生きた事の縁から生じるものとしても、それはアカショウビンはじめ少なくない人々の共感を得ていることは確かである。

 戦後のドサクサが多少は落ち着いた頃といえども昭和33年、50歳にして単身、奄美へ渡るということは関東の人間からすれば海を越え、波頭千里とも言える場所へ赴く無謀ともいえる不可解な行動であろう。なにゆえ一村は奄美へ渡ったのか?しかも棲み続けた場所は近くに「和光園」という地元の人々、というより当時はどこでも忌まれていたハンセン病の患者が生活している病院のある有屋という集落である。そこに何かつながりはあるのか?

 わからぬ事は多い。しかし、そこで一人の画家が南島の植物や景観や蝶や鳥や魚という自然の対象物と対峙した作品が人の眼と精神と魂を挑発し撃つことは確かなのではないか?

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コメント

>何か超然とした物を見据えることのできた者にしかわからぬ境地

作中、ちらっと観られる彼の絵から、そのような境地に至ったことはわかりま。

実は、今村監督の作品あまり見たことがないのです。
「うなぎ」はとてもよかった作品です。

投稿: マダム・クニコ | 2006年6月 7日 (水) 午後 11時07分

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