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2006年5月 4日 (木)

デリダの「死を与える」

 安楽死と位相は異なるといえども4月9日の「大審問官」で少し書いておいたジャック・デリダの「死を与える」(2004年12月10日 ちくま学芸文庫 廣瀬浩司・林 好雄訳)で展開される創世記のアブラハムとイサクの物語を通した死生観は興味深く示唆的だ。それはユダヤ教・キリスト教という宗教的土壌が厚く人々の精神を懐柔している土地柄でないと生まれない論説である。

 同書には表題の講演記録の他にアブラハムとイサクの物語を更に敷衍した「秘密の文学」という論考も併載されている。そこではユダヤ教・キリスト教的な土壌から産み出された産物としての「文学」の由来と経過、行く末も述べられていて興味深い。デリダの思想的成熟はハイデガーの講義に強く影響されたエマニュエル・レヴィナスの戦後の思想的成熟とも共鳴している。

   レヴィナスの「全体性と無限」((2005年11月16日 岩波文庫 熊野純彦訳)は1961年の著作だ。--外部性をめぐる試論--という副題が付いているこの著作でレヴィナスは、「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそがもっとも重要であることについては、たやすく同意がえられることだろう」 と序文を始めている。この21頁にわたる長い序文で表題を解説しているレヴィナスの言説は興味深い。それは「本来性」というハイデガーの術語とも呼応する「全体性」という術語と「無限」という概念でハイデガーの思索を乗り越えようとするレヴィナス独特の思索を展開しているからだ。ハイデガーに深く影響されながら彼への批判と自らの哲学を提示する強い意志がそこには横溢している。

  デリダがレヴィナスやハイデガーと音叉のように共鳴しながら思索するのもアカショウビンには、そういった言説の呼応の仕方が面白いのである。デリダが「死を与える」で使う「エコノミー」という術語もレヴィナスの著作から受け継いだものと察せられる。「死を与える」でもカント以降の近代西洋哲学の根底を通底する「超越」という、それは問題なのか概念なのか、あるいは「現象」とも見える問題がここでも思索されている、それは果たして西洋近代哲学だけで格闘される問題なのだろうか?仏教では「悟り」がそれに呼応しているのではないか?「自力」と「他力」という大乗仏教哲学にも、それと共通する論説が見られはしまいか。つらつら検討していこう。それにしても、それは広大で巨大で恐ろしく奥深く、漆黒の闇のような世界だ。果たして蟷螂の斧のようなアカショウビンの存在と知力がどれだけそこに通路を見出すことが出来るか実に心もとないが。

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