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2006年5月25日 (木)

マラソン

 ぴー、ぴーがちょるちょるねがよ。ぴー!ぴーがちょるちょるねがよ!母親は自閉し言葉を発しようとしない息子に土砂ぶりの雨の中で、天から小止みなく降り注ぐ雨滴を示し、そう声を荒げる。焦れて、怒るように、また哀願するように、目の前で無表情に佇む自分の体内から産み出した分身に激しく迫るのである。

 アカショウビンには異国のこの言葉は強い伝達力を持って感得される。それは精神の奥底でか、あるいは知覚の果てでか?しかし母と子が向き合う中で発されるこの異国語は或る絶対的な意味を持つ「言葉」として私に迫った。ぴー、ぴーがちょるちょるねがよ、は、あめゆじゆとてちてけんじや、という方言とも無意識の中で木霊していたのかもしれない。

 息子がテレビを飽きず視ることで空に覚えた「声」は、この作品の価値を象徴的に伝えて余りない。それは、この世の外部から聞こえてくる声のようだ。そうだ、正に、それは意味をなすようで、その声を発する者には意味として機能はしていないのだ。

 そのアカショウビンにとっても字幕でしか辿ることのできない音・声として、その「言葉」は発っされるのである。しかし異国の者にも、その声の何事かの役割だけは物語の中で理解される。

 作品の導入部の見事さで監督は観るものの視線を自分の世界にムンズとばかりに引きずり込む。それは映画作家としての力量を痛感させるではないか?それは技術的には映像の文法を良く会得している、ということでもある。その映像のあとは物語の展開に身を任すだけだ。何と言っても主人公の「声」の造型が素晴らしい。また母と子の愛情、家族や社会との軋轢と葛藤を物語る映像の間に挿入される象徴的な映像は詩的段階にまで到達しているとアカショウビンは脱帽する。優れた映像作品の或る瞬間は構成要素であるが稀有の直感でもあり、それは超越でもあるのだ。

 自閉症とは病気でなく障害である、という。だが、これは決して「障害者」を描いた作品ではない。「人間」という存在を観る者に問い返す作品だ。

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