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2006年5月13日 (土)

世に棲む日々

 ご存知、司馬遼太郎が吉田松蔭を描いた作品である。松蔭寅次郎という人の生き様と死に様を描いて、このタイトルが良い。それを作者が付けたものか編集者なのか知らない。しかし松蔭という人の一生を、こういうタイトルで象徴させる才覚にアカショウビンは瞠目するのである。 

 私たちの生とはそういうものであろう。現に存在している私たちの経験は恐らく死ぬときに、世に棲んだ日々、というように回想されるのではないか?人は死を恐れる。しかしなぜか?ソクラテスは、私は死を知らないから死を恐れない、と語ったとプラトンは書いている。 

 ソクラテスの境地とは気が遠くなるほど異なるアカショウビンを含め多くの人は死に臨めばそれを恐れるだろう。しかし「それ」とは死んでしまい死後はどうなるのか、という不安なのか、それとも病院のベッドで医療器具に囲まれて治療する過程での苦痛なのか。多分、そうではなく、「それ」は、死ぬことで、世に棲んだ日々が終わることへの失望なのではないか?あるいは世に棲んだ日々に未だ何事か、やり残したという未練。また逆に、先に紹介した「高瀬舟」の喜助の弟のように、この世での苦からやっと解放される、といった悲痛な喜びもあるのが人という生き物の不可思議さである。

 レヴィナスやデリダの思索を辿っていると、そんなこともつらつら考えるのである。ナチスに殺害された同胞をレヴィナスは「身代わり」になった人々として追想し思索する。それは頭の悪いアカショウビンには晦渋な思索に思える。しかし彼が対象に向き合い「顔」としてそれを看取しようとする意志はレヴィナスという人以外の誰も切り開けなかった思索であることは承知する。

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