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2006年4月 1日 (土)

怒りとは?

 辺見氏の近刊を読んで改めて思うことは「怒り」とは人間にとって何か?という問いである。辺見氏の文言を通底する「怒り」を私たちはどのように受容するのか?辺見氏に言わせれば、そんな悠長な問いこそが今の日本人に蔓延する愚劣さ、ということになるだろう。しかしアカショウビンにとっては、そこが思考をスタートさせる契機なのである。その問いは果たしてこの世で生きる間に解決できるものかどうか。それでも、そこから始めるしかない。

 近刊の帯には「突き上げる衝迫のなか、死に身で書き抜いた生と死、現世(うつしよ)への異議、そして自分への「有罪宣告」!!というコピーが添えられている。

 9・11の後に参加した反戦のデモは主催者の考えで「パレード」と称されたそうである。そして、そこに見た参加者達の幾多の表情の中に多く見られた「笑い」を「この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした」と感じ取る。それを「鵺のようなファシズム」とも指摘する。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのは「いまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか」とも判ずる。「風景の耐えられない軽さ」という章の「風景」を「存在」に置き換えれば、それは彼の国の書物と映画作品のタイトルである。人間という現存在の軽さが「存在」の重さに変わることの希少をそれは伝えているようにも読める。

 確かに今の日本人に欠けているのは心底からの「怒り」だという辺見氏の怒りは聴き取るべき「声」だと思われる。現実の我々は、時に飲み屋で、この国の政治の現実に呆れ、怒り、放言し喚く。しかし、それが公の場にまで広がることはない。9・11の後の世界で、その「声」は弱々しく、カの泣くようなものでしかなかった。それは金持ち喧嘩せず、といった金満体質に侵されている人々の姿勢をいみじくも顕す現象でしかなかったとも言える。

 先日、友人と飲み屋で歓談しながらアカショウビンも、酔いに任せて辺見氏の近刊の感想を友人に吐露した。友人は学生時代に左翼の言動に辟易し今や神主の資格を取った、敢えて言えば「民間右翼」である。アカショウビンや彼が学生の頃に読みふけった吉本隆明氏の著作の話をすると「お前は未だに吉本教信者だ」と罵倒する失礼な輩だが、これには応戦しなけばならぬ。アカショウビンは、かつて新左翼と呼ばれた人々の書物も読んだが、その対蹠に位置づけられる福田恆存や小林秀雄、保田與重郎も読み続ける者だ。このブログ上では右翼的言説を弄するブログ右翼とも見なされかねない論説者である。しかし、それは誤解というものだ。一個の「実存」として今を生きるアカショウビンにとって、青年時代の左翼的風潮の中での言説は未熟な学生にとって彼等とのやりとりは平均的なものだ、と振り返ることもできる。若い頃の左翼かぶれは大人になれば麻疹のようになくなる、といった訳知り顔の言説に彼も与している気配がある。しかし辺見氏の言説の痛烈さに果たして彼はどのように対抗出来るのか?彼の訳知り顔と、豹変する表情に、彼の言説の正当性を紋切り型と見るのもあながち錯視ではないだろう。

 人は生涯に様々な生き方の正念場に直面する。アカショウビンも齢50を越えて体に不調をきたし、来し方行く末を思案し、これまでの人生の総括を始めなければならぬと覚悟している。己の生き様を、思考を通し収斂させ、考えを定着させようとするのが、このブログという場であることも改めて断っておこう。

 「マルコムX」という映画作品を観ながら、「怒り」は改めて、この身から吹き上げる焔(ほむら)として実感もする。しかし、それを実存論的に、存在論的に、思考する可能性も当然「存在する」のである。

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