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2006年4月12日 (水)

無神論者

 「カラマーゾフの兄弟」で無神論者のイワンが「大審問官」という表題で創作した叙事詩の舞台は16世紀のスペインのセヴィリア。イワンは「時はあたかも、神の栄光のために国じゅうで毎日のように焚火が燃えさかり、

 壮麗な火刑場で

 心あしき異教の徒を焼きつくす

 という異端審問のもっとも恐ろしい時代だ。」(原卓也訳)

とアリョーシャに語る。

 その前の章の「反逆」でイワンは信仰心厚い弟のアリョーシャとの会話のなかで次のように話している。

 「(前半割愛)俺が苦しんできたのは決して、自分自身や、自己の悪行や苦しみを、だれかの未来の調和にとっての肥料にするためじゃないんだ。俺は、やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や、斬り殺された人間が起き上がって、自分を殺したやつと抱擁するところを、この目で見たいんだよ。何のためにすべてがこんなふうになっていたかを、突然みんながさとるとき、俺はその場に居合わせたい。地上のあらゆる宗教はこの願望の上に想像されているんだし、俺もそれを信じている。(以下略)」(同)

 無神論者のイワン、と改めて強調しておこう。そうでないと作者の語る、ある家族の「物語」がドストエフスキー特有の、巨大な渦が中央に雪崩落ちる前に、周りをゆっくりと回転するが如く、いくつものエピソードを飽きることなく語るのに付き合ううちに、作者の関心の的である神と人間の問題の所在を時に見失ってしまいそうになるからだ。ともあれ、この作品で作者が登場人物に割り振った性格でカラマーゾフ家の次男イワンと三男アリョーシャは作者の狙いをあざといほどに示している。ここで無神論者とは、空想的社会主義者ともいえるのだろうか。あるいは唯物論者とも。ともかく、信仰心厚い無垢なアリョーシャと対照的なイワンは俗にまみれているが、無宗教で通俗的な科学観に毒された私たち平均的な昨今の日本人にとってもアリョーシャよりは近い存在だ。

 引用の略した箇所でイワンは、悪行の限りを尽くす愚かで馬鹿な父親のために八歳で犬に食い殺された子供の話を引き合いにして、善良で信仰心厚い弟にあたかも教えを乞うように、また一転して激しく詰め寄る。「俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ」と言いながら。

 辺見氏が「カラマーゾフの兄弟」で、野村氏の指摘するように、この小説のひとつのクライマックスともいえる「大審問官」の章を意識して先の著作の第5章を書いたとするなら、アカショウビンは、この小説のなかに登場する人物では無神論者のイワンが辺見氏のように見えてくるのである。それは心優しい弟に切なく語りかけるイワンではなく、「叙事詩」を創作し、神は果たして存在するのか、とマナジリを決して切り返す「無神論者」イワンなのだが。野村氏が推察する理由の裏にも作家辺見 庸が叙事詩「大審問官」の作者イワンと重なって見えているのかもしれない。

 いずれにしても脳出血で臨死体験をしながらも生還したのもつかぬま、進行性大腸ガンで手術の艱難に会い続ける辺見氏のここ数年は、風貌さえもどこか「ダイ・ハード」のブルース・ウィルスを想い起こさせる。かのヒーローのように氏が辛苦を切り抜けられんことを。

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