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2006年4月 9日 (日)

大審問官

 今朝の朝日新聞に辺見氏の近著「自分自身への審問」(2006年3月10日 毎日新聞)の書評が出ていた。評者は野村 進氏という拓殖大学の教授でジャーナリストという肩書きだ。そこで氏は、辺見氏がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する大審問官を意識しているのでしょう、と指摘しておられる。確かに書名のタイトルにもなった同書の5章で辺見氏に問いかける者は大審問官になぞらえることができなくもない。しかし小説のなかで無神論者の次男イワンが弟のアリョーシャに語る「叙事詩」で登場させる大審問官の口を借りて問いただす相手は復活したキリストである。まさか辺見氏が自分をキリストになぞらえるはずもない。

 あの問答はむしろ埴谷雄高の「死霊」の語りを借りたものと推察する。もちろん、その「死霊」もドストエフスキーの強烈な影響のもとに書き継がれた作品だから間接的に辺見氏がドストエフスキーを意識していると言えなくはない。野村氏は辺見氏の「もの食う人びと」の刊行後に「のべ十時間ものインタビュー」をした人らしく、その書評は書評というより私信の態をなす文章だ。

 恐らく、そのインタビューの折に埴谷雄高やドストエフスキーの話もされたのだろう。辺見氏が闘病の渦中、不自由な体でパソコンのキーを叩くうちに脳裏に「死霊」や「カラマーゾフの兄弟」の大審問官とキリストのやりとりの光景が浮かび、病に襲われた生死の際で己の「現存」を問いただすのに知らず問答という構成になったのかもしれない。

 その第5章の問答では「夜と霧」の著者V・E・フランクルも引用される。「生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるようにも思われます。生きることはいつでも、課せられた仕事なのです。このことだけからも、生きることは、困難になればなるほど、意味あるものになる可能性があるということが明らかです」(『それでも人生にイエスという』山田邦男・松田美佳訳」、という箇所だ(p147~ p148)。それは娘を自殺で亡くしたクリスチャンの友人とのやりとりのなかで辺見氏が確認した文言である。

 「夜と霧」!辺見氏も、アラン・レネ監督のあの映画を見ているのだろう。アカショウビンも、あの作品を見たときの衝撃は忘れられない。虫けらのように殺されたユダヤ人の死体の山と、かろうじて生き残ったユダヤ人たちの姿・・・。

 私たちは今のところ戦争に狩り出され「国家」から死に赴くよう強制されることはない。しかし、その綻びが生じかけている。米国の圧力と現政府の権力中枢による改憲への動きである。「国家」は国民の生殺与奪の権力を握るシステムであることは、世界に存在してきた「国家」と、この国の過去の戦争を振り返れば自明だ。その誘惑に権力中枢は、さしたる熟考もなく米国という国の意向に尻尾を振り振り誘われ従う犬となっている。9・11以降の辺見氏の言説と警告は、そうした認識と危機感のもとに織り成されたものである。

 その章で辺見氏は友人との対話と自らの病状を通して、何事かを探り続ける。しかし、それは決して宗教的な救いを求める癒しとか憐れみというものではない。宗教とは自覚的に距離をとっておられる。むしろ、それは唯物論者の姿であり、虚勢ではなく辺見氏の生き様と鍛え抜かれた精神のようにも受け取られる。

 辺見氏を審問する者は皮肉と嘲笑に満ちて氏に迫る。しかし肉体は病んでいても、というより、それだからなおというべきか、氏の精神の張りはかえって研ぎ澄まされていくようにもみえる。肉体の疲弊を逆手にとって思考することを楽しんでいるようにも思われる。

 フランクルの文言から連想されるのはジャック・デリダが「死を与える」(2004年12月10日 ちくま学芸文庫 筑摩書房)の中で論じる言説である。デリダは旧約聖書の創世記を引用して、アブラハムと息子のイサクのエピソードを介し神と人の関係から派生する概念を思索する。そのうちのひとつはアブラハムに息子イサクを殺すことを要求する神とアブラハムのやりとりから生じる「許し」という行為である。創世記の異訳も参照しながら展開するデリダの言説は難解だがスリリングでもある。

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