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2006年4月 2日 (日)

プラド美術館展

 閑話休題。雨の予報を聞き、空いているだろうから、これ幸いとばかりに上野の東京都美術館へ向かった。前回観たのはは2002年3月5日から6月16日まで開催された時だ。きょうは会場に辿り着くまでに上野の桜も楽しんだ。雨が降りだす前で幸いだった。

 4年ぶり(だと思うが)のプラド展では前回圧倒されたスルバランも陳列されていたが「磔刑のキリストを描く聖ルカ」のような大作はなかった。それにしても、あの作品の背景の空間の深みとルカの表情の対照には底知れぬ凄みがあった。今、そのカタログを見直しながら、その時の事を想い起こすのである。

 きょうの会場は一階にグレコが陳列され、2階にバッサーノの「ノアの箱舟に乗り込む動物達」など。そこに共通するのは、これらスペイン名画の基層にある「聖書」の或る光景の視覚化への強烈な意志の力である。画家達の精神に共通する「キリスト教」は根深く彼らの精神を抉っている。ニーチェが指摘した「民衆のプラトン主義」としてのキリスト教をここにも見出すことができる。

 会場に向かう前に見終えたスパイク・リーの「マルコムX」で、米国が偽善の国だと弾劾したマルコムXの叫びは、その本質にあるのは「キリスト教」という宗教思想なのだとも読み換えることが出来る。プラトンの説くイデアに反発したハイデガーは、プラトン以来2000年の時をかけて、新たな神学を構築し続けた西洋の歴史を、ここにも見出すだろうと思われる。グレコや巨匠達の描くイエス像を見ると、彼等の精神をいかにイエスという人物が深く挑発し、刺激し続けてきたか、ということが見てとれる。そんな事を、あれこれ考えながら会場を逍遥したのであった。

 お目当てのゴヤは「カルロス4世」と「アブランテス公爵夫人」が見事。ゴヤの肖像画の素晴らしさを改めて感得した。

 アカショウビンにとって今回の展覧会の白眉はゴヤとルーベンスだった。ルーベンスの「ヒッポダメイアの略奪」はオウィディウスの「転身物語」のエピソードを視覚化したもの。この衝迫感というか凄みはどうだろう。ルーベンスという画家の天才を彷彿させる作品だ。「転身物語」はかつて読んだ記憶を辿ったが殆ど思い出すことはできなかった。「ニンフとサテュロス」の不気味さは、このフランドルの画家がゴヤというスペイン絵画の奇跡を生みだす歴史に存在した西洋絵画の巨魁であることを納得する。会場に2点展示されていたクロード・ロランとプッサンの平明な風景画と対極にあるのがルーベンスやゴヤという天才の真骨頂なのだということがよくわかった。

 それにしても深い宗教感情が生み出す人間の姿は神話と呼応してゴヤに極まったという物語は、かつて堀田善衛が語っていたのではなかったか?氏は確かキリスト教の異端派も研究していてゴヤを通したヨーロッパの精神史への造詣は傑出していた。アカショウビンの西洋絵画への関心のある部分は高校から大学の頃に読んだ氏の「ゴヤ」によって励起されたことを思い出す。先日から読み直している「小林秀雄対話集」で小林が河上徹太郎との対談(昭和30年「藝術新潮」4月号) でプラド美術館を訪れた感想を述べている。そこで氏はゴヤに「一番動かされた」と語る。今回ゴヤの作品に正面しアカショウビンも小林の感想に同感したのである。

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