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2006年3月 5日 (日)

至高の存在者

 前回のブログで死とは何か、と考え込み、アカショウビンなりに回答を出そうとしているが、たまたま読み止しにしていたジャック・デリダの著作を読み継ぎだしているので参考にしよう。それは必ずしもこの著作の意図にそうものではないが、そこで引き合いに出されるハイデガーの思想とデリダの思索は挑発的で刺激的であるのであえて引用する。

  デリダは「死を与える」という著作でチェコの現象学者、ヤン・パトチュカの論考を介してハイデガーに強い影響を受けたパトチュカが、どのようにハイデガーを越えようとしたのかの足跡を確認しようとする。

 したがってパトチュカは、こうしたハイデガー的な運動を意図的に逆行しているのである。彼はおそらく、責任というものが誰から来るものでもないとしたら、私の身をすくませ、私をつかみ、手や視線で捉えるような絶対的な存在者としての人格(ペルソナ)から来るのでないとしたら、真の責任も義務も維持されないであろうと確信しているのであろう。(こうした非対称性において、私はこの至高の存在者を見ることはない。私はそれを見てはならないのだ)。至高の存在者、無限の他者はまず私の上にやってきて、上から落ちかかってくる(たしかにハイデガーも、源泉が規定不可能なものである呼び声は、私からやってくるものでありながら、私の上に落ちかかること、私から発していながら私の上にやってくると述べている。Der Ruf kommt aus mir und doch über mich[呼び声は、私の中からやってくるのだが、しかもそれでいて私の上へと襲いかかってくるのである。]至高の存在者に私の責任の起源を帰着させることによってハイデガーと矛盾したことを言っているように思われる。というのも彼は別の意味で「キリスト教の神は超越を自明なこととする神学的な観念を取り上げ直している」のだから、ニーチェがキリスト教を民衆のプラトン主義と形容したのは正しいが、キリスト教と存在‐神学とのあいだには「深い原理的な差異がある」とも述べているからである。この矛盾から逃れるためには、至高の存在者についての思考を、あらゆる存在-神学から、ハイデガーが作り上げ、正当化しようとした概念としての存在-神学から、完全に解放しなければならないだろう(そしてそれはおそらくパトチュカの論説の暗黙の企てとしてとどまっている)。(「死を与える」 ちくま学芸文庫 2004年11月10日 廣瀬浩司訳 p71~72)

 ここでデリダが言う「至高の存在者」とは、先に仏教の「自力と他力」というタイトルで紹介した五木寛之氏が言う「阿弥陀仏」に対応している。五木氏は浄土教の他力の思想を説明して次のように述べていた。(2005年9月21日の「他力と自力」参照)

 「仏」(アカショウビン注:阿弥陀仏)は自分から近づいてきて衆生の袖をつかんで自分のほうに引き寄せるのだ、という思想である。自分がアンガージュしたように見えてもじつはそうではない。むこうから手をのばして引き寄せ、この手につかまれ、と呼びかけるのだ、というのが『他力』思想である」。

  それは、次のような死への考え方ともアカショウビンの中で反響する。  「<死>は、ひとの存在が共同幻想に出会うことだ。わたしたちの存在は共同幻想の<今>に出会おうとして時代の崖ふちをたどりながら、けっして時間の内側に陥ちこまないように駆けぬけてゆく」(吉本隆明「追悼私記」p185)

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