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2006年3月 8日 (水)

崇高と神秘 序論

   死とは何かを考えるということは、ハイデガーいうところの「現存在」、分かり易くは「私」にとって、生きるとはどういうことか、という問いでもある。そこで、この日常を生きて凌ぐということは、怠惰で呆けたアカショウビンの日常に光射す経験をもたらす崇高と神秘という概念を考察することにもなる。実存論的に、存在論的に、現象学的に、それはどのように分析され、かつ綜合できるだろうか

 崇高とは実存論的な人間行為の中にも生じるだろう。ある種の人間は崇高な存在として尊崇される。そして多くの場合、そこには神秘という概念も一体となるのではないか?しかし実存としての人間は果たして崇高たりうるだろうか?人間という存在はおそらく「歴史」の中でしか崇高たりえない。それは宗教者といわれる人々であっても。むしろ、彼らこそが崇高とは限りなく隔たる反面教師でしかないのは誰もが見抜いているのではないか。いや、そうでもない?それが充分通用している場面はあちらこちらに見られるか!

 さて、経験的には、例を音楽にとると、たとえばマーラーの幾つかの作品に、その典型が聴きとれる。交響曲第3番の4楽章は正に神韻縹渺。崇高というより、それは神秘的というほうが正しい。アルトがニーチェの詩を、深い海の底から、あるいは星々の煌く天空の彼方へ呼びかけるように詠う。

O Mensch! Gib Acht! おお、人間よ!こころして聴くがいい!

Was spricht die tiefe Mitternacht?  深き真夜半が語っているのは何か?

"Ich schlief,ich schlif -, 》私は眠っていた、眠っていたのだ--

Aus tiefem Traum bin ich erwacht;- いまこそ深い夢から目覚めたところ--

Die Welt ist tief, 世界は深い。しかも

Und tiefer als der Tag gedacht.  昼間が想い描いていたよりも深い。

Tief ist ihr weh-,  世界の嘆く悲痛は深い--

Lust-tiefer noch als Herzeleid. 歓喜は-心の苦悩よりなおさら深いもの。

Wer spricht;Vergeh!  悲痛が告げるのは、うつろい滅びよ、ということ、

Doch alle Lust will Ewigkeit-, それなのに、快楽が永遠なる不死を欲する-

Will tiefe, tiefe Ewigkeit ! "  深い、深い永遠を欲するのだ!《  (深田 甫 訳) 

 ヴェルディの「レクイエム」にもそれは聴ける。モーツァルトの「レクイエム」のラクリモサは崇高と神秘というよりも、人間の本源的な哀しみといったものを表出している。また映像ではヴェルディを作品冒頭で巧みに使ったタルコフスキーの「ノスタルジア」もすぐに思い起こされる。

 では、崇高と神秘という概念は存在論的には、ハイデガーがいう世界‐内‐存在の何処に、どのように位置づけられるのだろう?あるいは世界-外‐存在というものを想定する必要があるのか?そのいずれでもなく、あたかも、それは、その中間にか? 世界-外‐存在という概念は果たして意味をなすのか?

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