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2006年3月21日 (火)

「国家」とは

 保田與重郎がいう「情勢論」にアカショウビンは、このブログという場で極力、距離をとっている。しかしながら「私」という「自己」の言説が表出、あるいは少しずつ漏れ出るのを止めることはできない。それを時に諦め、時に修整し、泡のような自説・妄説・戯言・論評を書き連ねているのだ。

 言い換えれば、それは「床屋政談」的な論説を吐露することは極力避けると言うことである。しかし時に、書きたい、書くべきだ、いや書かねばならぬ、と思い書き起こすことがある。そしてかつて書いた内容を書き直し、敷衍し、くどい表現を修整する。その悪戦苦闘の末、まぁ、これでいいか、と諦め公開に任せる。

 このブログという道具、あるいは「場」というのは匿名にしようが実名にしようが、それは「半公開的」な言説空間である。匿名で出したとしても、それがある人にとっては本音である場合もあるだろう。逆に実名だとしても、それは何かを隠蔽しているはずだ。人は裸体では社会へ出れない。同様に言説は修辞という衣裳を纏う。

 このような場でアカショウビンの言説も電波空間のなかの泡である。それが「先進国」「発展途上国」の内での人間という生き物の最先端の現在でもあるのだろう。しかし、それは未開状態で生きている人々には別世界の出来事と時空間に違いない。その具体例をアカショウビンは経験しているわけではないが、中国やベトナム、タイなど東南アジアの貧しい田舎を仕事で訪れた時に、それを想像させる体験はした。その日本と仕事で訪れた幾つかの外国の経験からしても、問題はその先にある。

 唐突であるのを承知で言えば、それは道元の言う、百尺竿頭一歩を進めなければ実存の新境地はない、という言説にも通じるだろう。現実の共同体や国家に置き換えれば、革命でも起こさなければ新たな「歴史」は開けないということにもなると思われる。

 先の「罌粟と記憶」で書いた、ドイツの「歴史」のナチズムの記憶は、少なくともインテリの間で、少し広く言えば「市民」の中で、更にはドイツという現在の「国家」の中で、抜きがたい棘のように、現在まで彼の国民やユダヤ人、ドイツという「国家」の歴史の中に様々な形で継承されている出来事であり記憶である。

 アカショウビンはかつて読んだ山本夏彦氏の文章に「祖国とは国語である」という文を読み共感した。それは山本氏の認識の表出である。そして、それに呼応すべく先に書いたある小説家のホームページに書き込み自説を開陳し、歴史的仮名遣いをもっと学校で教えるべきだ、と主張した。それには賛否両論の反応があった。

 「国家の品格」という著作の著者には「祖国とは国語」という著作もある。おそらく山本夏彦氏が述べた言説に呼応した著作と思われる。内田 樹氏の痛烈な批評をホームページで読んだが面白かった。それは、この国の現在のフラフラした言説空間への根本的な批判の一つと思えた。内田氏の他の著書も、いずれ読む機会をつくりたい。とりあえずアカショウビンは辺見氏の新作と、デリダや保田與重郎の著書を読み継ぎながら思考を継続させよう。感想は近く書き込むつもりだ。

 保田の「右翼的な」言辞と、辺見氏の「左翼的な」言辞に刺激される言説空間で吐くのがアカショウビンの言説であることは断っておきたい。それは保田の言う情勢論に陥らないところで自説を述べようとする意志と諒解されたい。

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