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2006年3月14日 (火)

すでにさきあり

 先のブログで引用した道元の「生死」で紹介した「すでにさきあり」の水野さんの注釈は「現成公案」の一節からのものである。その前の文は次の通りだ。

 たき木はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後あるといえども、前後裁断せり。

  この後、道元は次のように続ける。

 灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬのち、さらに生(しょう)とならず。しかるを、生(しょう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生(しょう)にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

 ここには道元の、仏法を通した「時間」と人間の「生」に対する明確な姿勢が読み取れる。生きているということは、どういう出来事なのかという問いに道元は仏法の立場から自分の考えを述べている。ここは道元の思想と仏教の思想の急所、中核といってもよいところだ。

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