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2006年3月11日 (土)

生死

 道元は正法眼蔵の「生死」のなかで次のように書いている。

 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなわち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて滅すなわち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生(しょう)きたらばたこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふ(仕ふ)べし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。(底本秘蜜正法眼蔵) 

 「すでにさきあり」という箇所には岩波文庫版(1993年)では「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後裁断せり」と注釈が付けられている。それは道元の時間観(今風に言えば時間論だろう)を説明する必要があるからだと思われる。秘蜜正法眼蔵は校注をされている水野弥穂子さんによると道元の高弟である懐奘が所持していた六十巻のための巻から除かれたものということだ。正法眼蔵には後の時代に様々な異本が現れているので水野さんはじめ寺田 透氏らの詳細な研究が助けになる。

 アカショウビンは学生時代、寺田 透氏の「道元の言語宇宙」(1974年 岩波書店)にいたく啓発され正法眼蔵は時に引っ張りだし未だに繰り返し読み続けている書物である。難解だが深遠、闊達で襟を正す自在な名文に眼を凝らすと怠惰で呆けたアカショウビンの日常に痛棒をくらわす効果は覿面だからだ。

 ハイデガーやレヴィナス、デリダらのキリスト教、ユダヤ教を背景にした欧米の生死観を読みながら我が国の生死観を振り返るとアカショウビンは常に道元に戻るのである。

 先に書いた44歳の若い社長の死を、生より死に移ると我ら衆生は考えがちだが、道元はそれを厳しく戒める。「滅きたらばこれ滅にむかひてつかふ(仕ふ)べし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」の言説は繰り返し再考し、血肉とすべき境地と心得るのである。

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