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2006年2月 7日 (火)

過たぬ記憶で辿ろう

 N村君からアカショウビンの記憶違いを指摘された。何と彼は映画の「ソフィーの選択」を観ていないというのだ。!おそらく、彼と話したとき、アカショウビンが勝手に映画の面白さを語り、彼が話に合わせて原作を読んだ感想を話したのを彼と映画の話をしたと勘違いしたようだ。記憶というものは曖昧なものだとアカショウビンは反省した。N村君、ゴメン。

 生真面目な彼のことだから原作(アカショウビンは原作を読んでいない)の主題になっている筈の、ナチスの父親(両親だったか?)をもったドイツ人女性とユダヤ人の男の恋愛を軸にした物語展開に関心が集中しエミリー・ディキンスンの詩は映画化するときに、そこを強調して換骨奪胎しただけなのかもしれない。ここは原作と映画で確認したいと思う。

 ところで映画で引用されていたディキンスン(岩田典子さんはディキンソンと表記されているがアカショウビンはディキンスンが音に近いと思うのでディキンスンと表記することをお断りさせていただく)の詩の訳(新倉俊一氏の訳編では829番)を、以前にビデオを観て書き取った箇所は次の通りである。

 広い寝台を畏れをもって準備し、公正な審判の下る日を静かに待とう 褥(ここは、しとね、と仮名になっている)枕 (これも、まくら、となっている)をまっすぐに 朝日の黄金色の騒音に乱されぬように

 ここの訳は新倉俊一氏の訳では次のようになっている。

 この床を充分にのべなさい 畏敬をもってこの床をのべなさい やがて審判が公正無比に始まるまで ただその中で待ちなさい そのふとんをまっすぐに揃えなさい その枕をふくよかにしなさい 日の出の黄色い騒音で この大地を乱してはいけない

 微妙にニュアンスが異なる。映画のほうが意訳しているのだと思う。しかしそれが映像には実にそぐわしいとアカショウビンは思ったのである。恋人たちが、恐らく互いの歴史的な出生の違いを超えて愛し合う先には死が見えていたのではないか。そこで引用されるディキンスンの詩が絶妙に映像を支えていたことにアカショウビンは震撼されたのだと当時の記憶を辿るのである。もっとも、そのシーンはもう一度確認してみたいと思うが、いつのことになるやら。

 かつてアカショウビンは、国語にあてる時間を英語以上に増やし、歴史的仮名遣いを国語教育の中で古典を通して教えよ、と主張したことがある。それは古語を通じた国語を大切に教えなければ外国語を学んでも、恐らく上達は覚束ないと考えるからだ。その古語と国語の中で重要なのは詩ではなかろうか。ハイデッガーがヘルダーリンの詩に根底から触発されているように、哲学者でさえ詩人の境地へ分け入ることは哲学することと不可思議に呼応している。我が保田與重郎が万葉集、和泉式部、人麻呂、家持の詩に触発されるのも同じような境地に達しているからだとアカショウビンは思うのである。

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コメント

【ディキンソン断想】エミリー・ディキンソンの詩篇は、生の不安の中でおののく心に直截に語りかけてくる。息をひそめ神経を研ぎ澄まして、極度に純化された詩的内省の世界にこの詩人は生きていた。この自らの詩の世界で、比喩に満ちたことばとともに語りつづけることが自らの生を証す唯一の手だてであるかのように。厳粛ともいえる詩作のなかでこそ、この詩人は己の詩魂とそのことばの息吹によってのびのびと手足を伸ばせたのであろう。語られるトーンは常に愛の記憶と死の足音に通底している。(つづく)

投稿: スタボロ | 2006年2月 8日 (水) 午後 03時02分

【ディキンソン断想】(つづき)そして生の不安と寂寥の影を落としながらも、悲観的な理想を語らずにはいられなかった。☆この詩人の才能にせめてリルケほどの精進があれば、さらに豊かな作品が望めたのではないだろうか。しかし彼女の詩魂は、常に現実世界の捨象の上で磨かれつづけたゆえに、現実の中で神経をすり減らすことには耐えられなかったのであろう。そののちその詩的世界がひとりの人間存在のリアリティーを、幾多の人々の内面に語りかけてきたことであろうか。詩的リアリティーもまた人間存在の白熱した存在証明なのである。

投稿: スタボロ | 2006年2月 8日 (水) 午後 03時17分

 スタボロさん。懇切なコメントありがとうございます。アカショウビンも、おっしゃるように彼女の詩の通奏低音は「愛の記憶と死の足音」だと思います。映画の中では恋人達の運命と巧みに呼応し物語が構成されていました。映画のほうはご覧になっていますか?
 リルケの詩も読み直してみましょう。それに、パウル・ツェラン、西脇順三郎も。

投稿: アカショウビン | 2006年2月 9日 (木) 午前 11時19分

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