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2006年2月12日 (日)

単騎、千里を走る

 「単騎、千里を走る」は張 芸謀(チャン・イーモウ)が「初恋のきた道」で描きあげた母・息子、母・娘関係を父・息子の関係に移して描いた作品だ。前者では父が不在だったが、この作品では母が不在である。しかし、そういった仕掛けを含めて物語は「初恋のきた道」 の構成を踏襲したとしか思えない安易さを克服していないと不満だった。

 高倉 健という俳優の存在感が大き過ぎたのだろうか?いや、それは日本人として見るからそう思うのであって高倉 健という俳優を知らない外国人から見れば、この作品も異なって見えるのかもしれない。また雲南省だったか石鼓村(ネットで調べたら実際はこの名だったが字幕では石頭村ではなかったか?)という村の村長や、その周辺の人々の描き方も「初恋のきた道」をなぞり新味がない。というより作品の構成と狙いが透けて見えるのだ。

 にもかかわらず、この作品がある種の力を持って迫ってきたのは、二組の父と息子の情愛を物語る一方で風景を実に丁寧に撮影しているところにある。その自然の圧倒的な存在感は出演者たちの存在を凌駕しているようにも思えた。トウキョウという首都で仕事をし、たまに地方へでかけ、日常の自然を知らず、通過者としてしか接しないアカショウビンのような都会ボケのニッポン人からすれば、奇岩や、自然の脅威や和みの下で、人間という生き物達が、いじましくも生きる姿が見られただけでも、この作品を観た甲斐はあった。しかし、それでは張 芸謀の作品としては物足りない。

  アカショウビンが男だから違和感をもったのかもしれない。「初恋のきた道」が女性から見ておそらく異なって見えるだろうように、この作品も女性が見れば、また異なって見えるのかもしれない。ところが監督が男で、主役も男の中の男だからゆえに、父と息子というテーマを客観視できず、「初恋のきた道」のようには、うまく物語を語れなかった、とも考えられる。まぁ、「初恋のきた道」にノックアウトされたアカショウビンの感想であるから、ないものねだり的な感想であることは許されたい。

 監督は日本と中国を往復しながら仕上げに時間がかけられなかったのかもしれない。日中合作という、距離的、時間的な壁のなかで妥協があったのかもしれない。偉大な主役に気を使いすぎたのかもしれない。かもしれない、が多すぎる(笑)。期待が大きかっただけに、どうしても、こうなってしまう・・・。

 それでも刑務所で演じられる昆劇(?)は面白く、作品が息づいた数少ないシーンだった。あれは「活きる」でも効果的に使われていたのを思い出した。

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