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2006年2月11日 (土)

過たぬ記憶で辿ろう(続き)

 「ソフィーの選択」で事実誤認があったので修正する。メリル・ストリープ演ずるソフィーはドイツ人女性ではなくアメリカへ移民として渡ってきたアウシュビッツで生き残ったポーランド人女性だったのだ。ところが彼女の父親が反ユダヤ主義者の大学教授のポーランド人だったのでアカショウビンは、いつの間にか、ドイツ人女性とユダヤ人の男の悲恋という、見やすい構図に置き換えていたわけである。人の記憶は時に曖昧である。そして安易に図式化する。注意せねばならない。

 その秘密をソフィーは恋人のケヴィン・クライン演ずるナチスへの憎しみに時に常軌を逸するユダヤ人のネイサンに隠し続けた。その父親はナチスの知識人狩りに巻き込まれて反ユダヤ主義者でありながら逮捕され銃殺されたという事実も明かされる。ソフィーはアメリカに渡り恋人のネイサンやこの作品の原作者と出会い、父親はユダヤ人を擁護した大学教授だったためにナチスに殺されたと嘘をつき続けたのだった。

 映画ではソフィーが、強制収容所から、どのように生き延びてきたのかが、原作者にソフィーが告白するように語りかけるなかで回想される。レンタルビデオで見直すと、それにしても改めて痛烈な作品だと思う。あえていえば、この作品を、このように事実誤認しながらも大筋では記憶しているなかで、少なからぬ関心を持って見たスピルバーグの「シンドラーのリスト」は、何とぬるい映画か、とアカショウビンはがっかりしたのだった。アカショウビンには「シンドラーのリスト」はこの作品を乗り越えているとは思えなかったのである。

 物語の進展のなかでネイサンが実は麻薬患者で、しかも精神分裂症を病んでいることが明らかにされる。

 そして二人の死で悲恋は終わる。そこには映画の前半で恋人達の出会いに重要な道具立てとなったディキンスンの詩が添えられる。

 ナチスによる、それは狂気としか見えない驚愕する歴史事実を前にして私達日本人は何が言えるのか、という一つの痛烈な問いをアカショウビンは、かつてこの作品から突きつけられた。その種のアカショウビンが観た最初の映像はアラン・レネ監督の「夜と霧」だった。これは多感だが未だ世界と歴史に対するには、おざなりの知識と経験しかもたない、未熟な高校生には刺激の強すぎた作品であった。そこでは見る者を身悶えさせる映像が突きつけられるからだ。

 ドイツの近代史を、映像を通じ、さらに書物や人々の語りで受け取る歴史事実は、単なる人間の狂気として片付けられるものなのか、というのが、それ以降アカショウビンの中に間欠泉のように吹き上がる問題意識である。それは、私自身とは関係のない、歴史の或る時期に起こった例外的な事実だったとすることはできないのではないか?ある状況と条件が揃えば、我々もまた、その陥穽に知らず落ち込む、人間という生き物の中に組み込まれている性(さが)なのではないか?それは、いつの世にも人間という生き物の歴史に生じ得る可能性を持つ、たとえば仏教で説かれる業のようなものではないのか?これがアカショウビンが、このような作品を見る度に継続して抱き続ける問いなのである。

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