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2006年2月 1日 (水)

エミリー・ディキンスン

  友人のN村君は高校の英語教師である。生真面目で律儀。昔の書生さん(この実体は知らないが)風とでもえいえば、何となく雰囲気だけは伝わるだろうか(そんな事あるわけないか)。見た目は教え子の女生徒からモテそうな風貌だが、話していると理屈っぽく、吉本隆明にも影響されているようだ。そんな教師と女生徒の関心とは天地ほどにも離れているだろうから、彼が教師として、どんな「生活指導」とやらをしているのかアカショウビンは少し興味がなくもない。

 生まれは東京の下町。かつては、あの荷風翁も足しげく通った遊郭の近くだが、学生時代からまじめで、そちらの話は、あまりした記憶がない。

 生真面目な輩は、えてしてドン臭い。そしてたいがいが含羞というものに鈍感だ。ところがN村君は少しシャイ。学生時代は、風貌のわりには、女子によくモテたようにも見えなかったが、なかなか美しい恋人はいた。微妙なところでシャイ。それが女心を複雑に刺激するのかもしれない。それは果たして母性本能と、どう関係づけられるのか面白い課題だが。巷間、流布している「母性本能」という「本能」も近代の入口辺りで作り上げられた概念だ、と論じていたのは誰だったか?おっと、話がそれてしまった。その美しい恋人とも別れ、晩婚だったが今は一人娘の父親でもある。

 なぜ、こんな前振りをするのかというと、それは彼が高校の英語教師をしている、という一点に以下の話が関わってくるからである。

 アカショウビンのような映画狂ではN村くんはない。しかし我々のような年代が学生の頃は、名画座という、懐かしい、ありがたい、格安な料金で、世の傑作、佳作、凡作、駄作、愚作を上映してくれた映画館が次第に滅びていく最後の頃だった。

 仲間で駄弁る材料は、小説や作家、批評家、それに音楽、女や映画の話だった。しかし社会人になれば、そんな話は自然としなくなる。女房、子供、家のローン、嫁姑の争いが切実な話となってくる。アカショウビンのように、この歳になっても性懲りもなく、映画や音楽、思想、哲学の話を、ブログというような、真面目に仕事に活用するならともかく、金にもならない話をシコシコと書くというのは阿呆のようなものである、と心から情けなくなるのである(笑)。 

 なかなか本題に入らないので申しわけない。ここから入る。 そのN村君と、何年か前に話していて「ソフィーの選択」という映画の話になった。アカショウビンは、良い作品だ、と褒めた。N村君は原作も読んだという。そこでアカショウビンは、何が良かったかといってエミリー・ディキンスンの詩が素晴らしかったと感想を述べた。しかしN村君はキョトンとしている。何それ?という風情なのである。アー、何とドン臭いやつか、と学生時代以来、そのときもまたアカショウビンは呆れたのである。

 あの映画を観たあと、脱兎の如く(たとえが古くてもうしわけない)本屋に走り、息を切らしながら可愛い女店員を姑息にも避け、無表情な女店員を選び、目を血走らせ、どもりながらも「エ、エ、エミリー・ディキンスン詩集はどこにありますか」と勇を鼓して訊ねない男は共に文学、天下、国家、人生を語るに足らない、と心から深いため息をついたのである。しかしN村君は、エミリー・ディキンスンなんて読んだことないんだもーん、と平気な顔をしているのだ。英語教師がディキンスンを読んだことがないということは、フランス語教師がヴァレリー、マラルメを読んだことがないというのと同じく愚かで恥ずかしいことではないのか?アカショウビンは、そのとき、心の底から日本国の英語教師と英語教育に絶望したのであった。あの作品の中でディキンスンの詩は千金の重みを担っていたではないか。おーい、N村君!日本の英語教師はそれでいいのか~~。

 アカショウビンは松蔭寅次郎が、黒船という、その頃の江戸庶民にとってエイリアンの襲来のごとき登場に恐れをなして逃げ出すのを尻目に、翻然とその何たるかを身を挺して視極めんとした行動を思い起こすのである。もちろん、飛躍は承知で言うのである。こうなったら勢いと言うものである(笑)!

 松蔭寅次郎が幕末に西洋文明に己の知を対抗させて、徳川幕府という瀕死の、しかし日本国の歴史を担い続けてきた権威に対峙した気概と歯噛みをアカショウビンは共有する者である。N村君のキョトンとした表情に、それはもしかしたら居直りでもあるのではないか、と邪推しアカショウビンは絶句したのであった。

 先日、思うところあって訳詩集を購入し、映画で語られた詩の箇所の翻訳を読んだ。つまらない訳だった。しかし、それは原文がつまらないのか、翻訳がつまらないのか確かめたわけではない。映画の中の字幕で辿る翻訳は素晴らしかった。そのうち、原文と照らし合わせ、映画も見直したいと思う。

 それにしてもN村君は、未だにディキンスンを読まず、授業で生徒にも教えていないのだろうか?おーーい!中年の英語教師~~!それで日本の英語教育は大丈夫か~~。

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