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2006年2月12日 (日)

実存論的聴覚・視覚論

 「リヒテル<謎>甦るロシアの巨人リヒテル」、というDVDを観ながら、人間が音を奏でる、という行為は実存論的には、どのように位置づけられるのか、と考えた。そこには、リヒテルが西側(今ではなつかしい響きだ)にデビューする前の映像も多く記録されている。デビュー以降は世界各地でピアノを弾く姿を見ることもできる。それにしても若い頃のリヒテルは弾きまくりピアニストだ。インタビューに答えて、ヨーロッパや米ソ冷戦の時代に行きたくもなかった外国で不満足な演奏しかできなかった後悔も率直に語っている。また熱狂的に迎えられた米国を陳腐(字幕ではそうなっていたが音声ではstandardという英語だった、と思う)な国とも評している。これは決して政治的な発言ではないだろう。同時代のショスタコーヴィッチなどの音楽家に比べてもリヒテルというピアニストは政治とはかなり距離をおいた、というより政治に殆ど興味がなかった芸術家と見える。もちろん表面的にはだが。またこのDVDでも、その辺りのところは通り一遍にしか伝えていない。スターリンの国葬の時に演奏を強いられたというエピソードが挟まれているくらいだ。

 日本語には、視る、見る、観る、など、あるいは、看る、診るなど、視覚だけでなく心像として対象に対峙する行為がいくつもの漢字にあてられる。ところが聴覚には聴く、聞くらいしかない。人間の五感は仏教では眼耳鼻舌触と順序付けているが、それは往古の人々も、その順で人間が刺激を受けることを表しているのだろうか。

 今朝のNHKテレビで西山英雄さんという、戦後のある時期から亡くなるまで桜島を書き続けた画人(と案内者の方は言っていた)が紹介されていた。凄い画家というのは私たちが知らないだけで世の中には幾人もいるものだ。先の同じ番組では堀 文子さんという80数歳で旺盛な創作をされている現役の画家も紹介されていて驚愕し感銘した。しかし画風は異なるといえど西山さんの桜島は凄いものだ。アカショウビンは大観の富士に対する執着にも対抗する激情を感得した。それらは、恐らく戦場で視た地獄を戦後、寡黙に徹したという西山さんが作品に塗り込め、凝縮し濾過し画布に現そうとした気迫が伝わるからだ。それは妄狂とでも称するしかない凄みがある。

 お弟子さんに、日の丸を描いてみぃ(西山さんは京都の人だ)と促し、弟子が丸く描こうとすると、違う、違う(それは、ちゃう、ちゃうという愛情を込めた京都弁だったかもしれない)と怒り、対象は中心から描くんや、と教えたという。それは西洋哲学的にいえば形相として捉えるのではなく、「存在」を掴み取るのでなければ平面に対象を写し取る絵画という芸術は多次元的に表現できないということだろう。その晩年にいたる実に千変万化する桜島を見ると西山英雄という画家はゴッホにも比肩できる画家なのではないのかと瞠目する。

 それにしても我が国の美術教育は泰西名画に偏りすぎているのではないか。アカショウビンの美意識も小学校から中学、高校と進むにつれて、その偏重が甚だしくなっていったように思う。現在の状況は知らない。しかし教科書に西山英雄は入っているのかどうか。恐らく入っていても泰西名画の中に埋もれているのでないか?

 歴史教科書の話題はここへきて鳴りを潜めているようだが、美術教科書でヨーロッパ偏重はないのか?だからといってアカショウビンは歴史教科書の編者たちに同意するわけではない。西山の絵を見て、画家が対象を見る面白さにアカショウビンは立ち止まる。西山描く桜島の数々の絵は画家という存在が全身を、視る存在と化し画布に定着させる存在であることを痛感させる。

 同様にピアニストとは、逆に、書かれた楽譜を音にする存在である。リヒテルが演奏する音楽を聴くと、盲目のピアニスト、オルガニストがいることも考慮すると、もしかしたら、人間は目が見えなくても耳だけで人間の五感を超えた境地に達することができる存在なのかもしれないと思う。盲目のピアニスト達、ヴァルヒャのようなオルガニストの視覚に太陽の光はない。しかし心の中で映像はどのようにか実存しているのではないか?実存論的には、それは、どのように説明されるだろうか。

 先のDVDにはグレン・グールドがリヒテルを評している映像も入っている。それは実に急所を突いていると思った。グールドはシューベルトが好きではないとしながらも、ロシアを訪問した時にリサイタルを聞いたのだろう、シューベルトが素晴らしかった、と率直に語っている。優れた音楽家というのは、書かれた楽譜からどれだけ作曲者の意図を読み込み、その心の襞に入り込めるかで才覚が問われる存在なのだ。楽器を自由自在に操れるようになった後に、暗譜で演奏するのではなく再び楽譜と向かい合う(リヒテルも、指揮者ではクナッパーツブッシュもそうだ)ことで優れた音楽家は、或る境地に達すると思われる。

 その境地は存在論で言う超越という概念である。E・レヴィナスはハイデッガーを一歩進めて存在論を思索するなかで「志向性」という概念を説明し、「志向性」は「意味」の起源にほかならない、として、「意味とは、精神に対する透過性、感覚と呼ばれるものをすでに特徴づけている透過性であり、そういってよければ光の明るさのことなのだ」、と「実存から実存者へ」(ちくま学芸文庫 p95 2005年 12月10日)で述べている。

 続けて(中略)、「感覚的な太陽から発するのであれ、知的な太陽(アカショウビン注:盲目の演奏者には、この概念が充てられるだろう)から発するのであれ、光はプラトン以来存在すべての条件となっている」、と思索する。戦争が終わり1947年に出版されたこの書物はハイデッガーを一歩進めようとするレヴィナスの思索が独特な構成と独自の「実詞」(イポスターゼ)という術語を用いながら試みられている。それはハイデッガーも目にし耳にしていただろう。先のブログでも紹介したハイデッガーが「待望の光明」という言葉で表しようとしたのもレヴィナスの思索と呼応していると思われる。

 かように、光と音とは人間という実存に深く関わる。それは存在なのか存在者なのか?あるいは実存なのか、実存者なのか?おそらく、それは両方であり、その絡みあいがハイデッガーが「現存在」という用語で現そうとした人間という生き物の存在の在りかた(哲学では様相というのだろうか?アカショウビンには小林秀雄がフランス語でフォルムという語に充てた姿という日本語が適切で理解しやすく思うのだが)なのだ。しかし、それはさらに綿密な思索を要する対象だ。アカショウビンも、いろいろな音楽や絵や映画を楽しみながら思索していこう。

 ところで最近観た映画では「キング・コング」も「単騎、千里を走る」も「有頂天ホテル」(これは昨日観てきたが満員のヒットだった!)もかなり不満だった。その感想は近く詳細に述べてみようと思う。

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