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2006年2月26日 (日)

死とは

 仕事関係の若い社長が今朝クモ膜下出血で急死した、という報が携帯に入った。享年44歳。昨年、社長になったばかりだった。お通夜と告別式に赴き、にこやかな遺影に対面し、夫人や残された成人前の子供達の姿を見ると、その早すぎる死に、ご両親の哀しみもいかばかりか、とアカショウビンも、あらためて死とは何なのか、という問いに思い至るのである。

 それはまた、この世に生きるということはどういうことなのか?といった問いへも導かれる。ハイデガーは、人という彼が現存在という語で考察する生き物は、死を先駆的に覚悟する存在、という。けれども私達の日常で死は限りなく遠い。日常的に死に出会う人は宗教者などごく限られている。それが近親や知り合い、親しい友人の死に遭遇すると、我々にも忽然と、他者の死を介在し己の存在のあやうさに、はたと気がつくのである。

  アカショウビンも昨年の夏、中学時代の友人がガンで亡くなったという連絡を受け愕然とした。その何年か前には一つ年下の従弟が急死している。50年を越えて生きていると周囲には身近な人々の死が増えていく。それにしても、死とは何か、という果たして答えがあるのかどうかさえ不明な問いには誰でも遭遇するのではないだろうか。生き物とは死ぬ物でもあるのだ。日本人の歴史的な感性は、それを、もののあはれ、という言葉で表現した。

 昨年か一昨年か、若い中国女性が、ある作家のホームページで、源氏物語を学んでいるが、もののあはれ、というのがわからない、誰か説明してくれませんか、という問いかけがあり、アカショウビンも自分なりに回答したことがある。返事はなかったが、古人の中に通底している死への不安と関心の深さが、その言葉には幾重にも重層した厚みでこめられている。

 感想を書くと言いながらぐずぐずしている「男たちの大和」という映画は邦画としては久々の大ヒットを記録し続けているようだが、そこには戦争礼賛ではなく、死に赴く軍人の懊悩と悲哀が、それなりに描かれているのが共感されていると思われる。今の日本に、あの時代の過酷さはない。しかし日常には様々な死がある。世界でも指折りの繁栄を謳歌しているはずの私達も身近な死で、その足元の危うさに気付く。

 ギリシアの哲人は、生きていることは死を練習することであると説いた。仏陀は、この世は無常迅速と説いたのではなかったか。

 先日はトリノのオリンピックで荒川静香さんの金メダルに感動したアカショウビンは仕事上の付き合いでしかなかったが44歳の早すぎる死に、人の世の無常をあらためて思い知るのである。

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コメント

アカショウビンさん、こんにちは。
TBだけして失礼しました。ネット検索して貴サイトに遭遇しました。

心痛むことがあったのですね。小生も馬齢を重ね半世紀は生きてきました。年を取るごとにあれこれ思うことが多くなります。

「蝋燭の焔」はお察しの通り、本文にもありますが、バシュラールの著作をイメージしています。但し、「蝋燭の焔」は学生時代に読み齧ったもので(しかも、ユングやフロイト、ラカンなどの脈絡とは関係なく読んでいた)内容は忘れていたのですが、印象だけは残っている。そのイメージを自分なりに展開してみたわけです。
ハイデッガーと道元とを何度も読み返すというのは素直に凄いなと思います。小生はこの数年、ドストエフスキーやトルストイ、マン、バルザック、マルケス、ユーゴーと小説の読み直しに取り組んでいます。
哲学関係の本にも関心を持たれているようで、お互い刺激し合えるものと思います。
こちらこそよろしくお願いします。

投稿: やいっち | 2006年2月28日 (火) 午前 07時34分

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» 蝋燭の焔に浮かぶもの [無精庵徒然草]
 読書というのは、薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を殺して眺め [続きを読む]

受信: 2006年2月27日 (月) 午前 03時07分

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