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2006年2月19日 (日)

光について

 「感覚的な太陽から発するのであれ、知的な太陽から発するのであれ、光はプラトン以来、存在すべての条件となっている」とレヴィナスが語るときにユダヤ教徒、キリスト教徒の脳裏と身体には創世記の神が言ったという「光あれ」という語句が、それを読む人の心の中で、それぞれの響きをもって呼応しているだろう。それがレヴィナスの言説にも大きな影を落としていることは見やすい。

 「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(新共同訳 1992)

 レヴィナスの言うことを、もう少し聴いてみよう。

  「世界の存在は光によって特徴づけられている。したがって世界は、実存する諸対象の総和ではない。全体性とか総体といった観念は、世界を包摂しうるひとつの存在においてしか理解されえない。全体性なるものがあるのは、それが光のなかにあるひとつの内面性に準拠しているからである。その点で私たちは、統覚による総合と、世界の構成におけるその統一の役割をめぐるカントの見解の深遠さを認める。ただそれを、直感と視覚と光の総合として理解するとしての話だが。」(「実存から実存者へ」西谷修訳 p98)

 カントの深遠さというのは訳者の西谷氏の訳注によれば、次の通りである。

 カントは「先験的統覚」と「経験的統覚」とを区別しているが、ここで問題となっているのは「先験的統覚」。認識が可能であるためには、直感に与えられる多様なものが統一され、その表象が一個の意識において総合されなければならないが、その統一の根拠となるのが、「私は考える(コギト)」という意識である。この意識は感性から(経験から)発するものではなく、あらゆる対象の表象はこの意識に関係してのみ可能となる。これをカントは先験的統覚と呼び、この統覚による統一を人間の認識全体の最高原理とする。

 レヴィナスの、この1947年の著作がハイデガーの「存在と時間」はじめハイデガー哲学を踏まえているのは明らかだ。その構成は、次のようになっている。

 序章

 実存との関係と瞬間  1  実存との関係   2  疲労と瞬間 

 世界  1  志向    2  光

 世界なき実存  1 異郷性  2  実存者なき実存

 実詞化 1 不眠  2  定位   3  時間へ

 結論

 この中で「疲労」や「不眠」の分析や実詞化(イポスターゼ)といった用語(これを「レヴィナス・コレクション」で合田正人氏は「基体化」と訳している)で、ハイデガーから学んだものを、その境域を越えて思索しようとする強靭な意志がレヴィナスの真骨頂だ。それは収容所から生き延びた者としての強い自覚に裏打ちされる思索である。ユダヤ人同胞の死と運命が彼の脳裏と肉体には重く抱えられている。この著書には、その格闘が随所に強く刻印されている。それは当時のフランスではハイデガーをもっともよく理解していた者がハイデガーを越えようとする強い意志に貫かれた思索の跡である。

  戦後のユダヤ人たちをはじめ、左右両翼のインテリたち、ハイデガー論争の端緒を開いたヴィクトル・ファリアスの政治的言説をもってしてはハイデガーの全体像は描けない。そこには教え子のハンナ・アーレントとのゴシップをあげつらってハイデガーをこきおろそうとするような次元へも降りるのである。アカショウビンは出来る限り、そういったところからハイデガーが生涯かけて思索した「存在」をより明確に捉えレヴィナスならずとも彼の存在論を自らの存在を通して更に一歩進めてみたいと願う者である。

 「ソフィーの選択」で描かれるユダヤ人たちの担う歴史の独自性は欧米の文化に深く根付いている。それは日本人や東洋の民には非日常的なものだが、類似した現象は身近にある。在日韓国人、琉球(沖縄)人への差別、遥か歴史を辿ればアイヌへの仕打ちにも見ることができる。しかし、ユダヤ人の歴史に比べれば、その規模は未だ小さい。もちろんそれは規模の問題ではない。これらの問題については、いずれこのブログでも論じる機会があるだろう。

  スタボロさんのコメントに応じて挙げたパウル・ツェランもユダヤ人の詩人として戦後を生きた、ハイデガーと関わる人である。1948年の処女詩集を「骨壷たちからの砂」と名づけた心情はユダヤ人の運命を深く自覚するツェランの呻き声が聞こえてくるようだ。そこには重く圧し掛かる同胞の歴史と現実と、未来への苦渋とかそけき希望がこめられている。詩人がハイデガーを訪れたときにはどういう会話が生じたのだろうか?また、それは会話と称する態のものだったのだろうか?このユダヤ人の優れた詩人にハイデガーはどのような表情で相対したのだろうか?いずれ、それはこのブログで再構成してみようと思う。

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