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2006年2月19日 (日)

映画寸評

 2月9日(木)のことだが、「単騎、千里を走る」を有楽町マリオンの日劇で観にいったときの各館の様子が面白かった。「単騎~」はまばら。後日行ったとき満員だったことからして、そのときの「THE有頂天ホテル」もかなりの入りだったろう。向かい側の「フライトプラン」にはマスコミのテレビカメラが群らがっていた。ジョディ・フォスターが挨拶に来館でもしていたのだろうか。彼女のファンでもあるアカショウビンは、ふらふらと、そちらへ足が向き返るのを踏みこたえて「単騎~」へ向かったのである。今年1月に観た「男たちの大和」も、その後に観た「キング・コング」もかなりの入りだった。

 「キング・コング」は、もういいよ、と言いたくなってしまったハリウッド活劇。毎日新聞の映画評は、おおむね好評だったと記憶しているが見事に期待は裏切られた。ハリウッドも旧作をリメイクするしかないネタ切れ状態なのか?だとしたら米国が誇る映画文化の世界支配にも黄昏、翳りが見えてきたと歓迎したい、とアカショウビンは嫌味のひとつも言いたくなるのである。

 一昨日は、買い溜めておいたDVDの中から、エリア・カザン監督の「紳士協定」を観た。これは米国でのユダヤ人問題を題材にした1947年の作品だ。公開当時は日本人の私達が見る以上に米国社会では物議を醸したと推測される。しかしまた、それは米国社会で果たして黒人問題より深刻であったかどうかという疑問も喚起させる。しかしながらこの作品は、社会派のカザンがナチスの蛮行が次第に明らかになるなかで覚悟を決めて撮った作品であることは理解する。しかし、その後、米国の知識人階級、政治権力にも支配権をめぐらしたユダヤ人達への迫害は左翼弾圧の「赤狩り」の中で形を変えユダヤ人迫害以上に過酷な黒人弾圧へとエスカレートしていく。「紳士協定」は幸か不幸か、おそらく政治的な配慮も働いていただろうが、第20回のアカデミー賞で作品賞・助演女優賞・監督賞を受賞した。しかし、それは米国の良心と賞賛できるものでもない。映画史を辿れば、黒人差別の過酷な現実の映像化は少なくともアカショウビンの経験ではアラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」という傑作の登場を待たなければならなかった。

 「紳士協定」ではグレゴリー・ペック演ずるルポライターと彼を支える母親の姿が米国人好みの正義派の面目躍如である。しかし作品は彼の国がドイツ・イタリア・日本に戦争で勝った後も、人種問題という内なる病根を抱えていることを伝える。それは戦後も米国社会に底流する根治しがたい病として隠蔽されていることに我々は無知であってはならない。

 そのような作品も観ながら、先日は毎日新聞で外国人記者が「SAYURI」の反響を書いているのも読んだ。それは比較的に公平性を保った批評になっていたが、日本人からは国辱ものとの批判も出ていることは週刊誌で読んだ。そこには我が国の女小説家が高名な男恋愛小説家の評言として伝えていた。しかし、国辱ものという評言にアカショウビンは同意しない。その理由は先ののブログを読んでいただきたい。

 正月に観た「男たちの大和」の感想は、いずれ書くとして「THE有頂天ホテル」を先にしよう。

 この大ヒットの人気はともかく、作品の完成度には不満だった。その理由は、一言で言えば監督の作品全体へ配る視線が甘く、作品全体を統率する力がいかにも不足しているところにある。三谷監督はビリー・ワイルダーを尊崇する有能な脚本家だ。では、この作品で三谷氏は監督としてのワイルダーの域まで到達したか。うーん、残念、というしかない。アカショウビンには「単騎~」と同じく期待が大きかっただけに。

 アカショウビンが考える傑作の条件は物語を掌握する監督の求心力と、役者たちのそれに応える渾身の演技と台詞。それに音楽だ。これらが絶妙にブレンドされて傑作は生まれる。この作品で台詞は脚本家の美質が随所に見られる。しかし、それは作品の中心に凝縮していかない。作品の本質を明らかにするのは監督という仕事の力技である。黒澤も小津も偉大な監督たちの傑作は、それを成し遂げているところにある。三谷監督はこれからもチャンスがある。その才覚はアカショウビンも認めるにやぶさかではない。次作に期待しよう。

 それにしても邦画で劇場が満員になったのを経験したのは久しぶりだ。それを素直に喜ぶべきことは言うまでもない。

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