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2006年1月15日 (日)

恕し(続き)

  NHKの「こころの時代」という番組で西田幾多郎(1870~1945)が取り上げられていた。そこで紹介された西田の哲学というより彼の人生が興味深い。西田は30代で愛する弟が日露戦争の旅順攻略戦で戦死する。その後も1919年、長男、謙が腹膜炎で病死する。更に次女と母を相次いで亡くし、妻も5年間の病を患い1925年に亡くなる。知人は、そのような西田家を旧訳聖書のヨブの家に喩えたという。

 西田はそのような人生を生きながら、心情を短歌に託し、「われ未だ此の人生を恋ゆるらし このうえも(ここは不明)生きたくもあり死にたくもあり」と歌う。敗戦の時の日誌には「人生はトラジック」と書き、弥生という娘も亡くす。そのような人生の悲哀の中で哲学徒西田幾多郎は己の哲学と人生を通して宗教を考えたと思われる。

 番組の紹介者は、ハイデッガーが人間は死と出会う存在である、と言いながら、「私の死は未だ死を切実に考えていない」(ということは自らの死を客観視できない矛盾の中で人は思索するしかない、ということだろう)と述べたことを紹介し西田も同じ思いを抱いていただろう、と述べる。

 友人の鈴木大拙(1877~1966)は、西田哲学を書かれたものだけでは理解できない、と評したとも。西田哲学がそういうものを含んでいるというのは厳密と厳格に貫かれている印象に風を通してくれる。西田の弟の死の知らせを受け取り大拙が米国から追悼の手紙を書き送ったのも互いの友情の深さを思い知らされる事実だ。

 その鈴木大拙が最初に出会った死は6歳の時の漢文学者であった父の死である。大拙はそれを良く記憶していたという。大拙の禅への思索は父親の死が一つの原動力になっているのかもしれない。それだけに片親で育った大拙は母親への愛情がいっそう深く、彼は母親が桔梗の花のような人だった、と評し、その死を深く悲しんだ。また年の若い弟子である柳 宗悦の死にあたっても、「柳のようなこういう人格は死んでも人の心のなかに残るだろう(取意)」、と弔辞を読んだという。

 鈴木大拙と西田幾多郎の間にはかけがえのない友情が続いた。西田が亡くなったあと、あと5~6年生きていたら、もっと深い対話が出来たのに、と大拙は西田の死を惜しんだという。大拙が西田の哲学にも影響されただろう戦中に書いた「日本的霊性」はアカショウビンも読み、深く刺激された書物である。

 西洋哲学を学び、禅を通して哲学から宗教的な思索も深めた西田や、欧米に禅を伝えた大拙のような宗教者の人生を知るとアカショウビンも後半の人生を半歩でも深めて生きたい欲求が湧いてくるのである。恕しを考えるうえで東洋的なこのような視点を欠かすことはできない。

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