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2006年1月29日 (日)

「SAYURI」

一昨日は山形へ一泊の仕事。2連チャンの新年会でへろへろになり昨夜遅く帰宅したのできょうは一日ゴロ寝。したがって「単騎、千里を走る」も「キング・コング」も観れなかった。そこで暮れに観た「SAYURI」の感想を書いておこう。

物語は米国や英語文化圏の人々にとって不思議の国ニッポンを理解するのに興味深い材料を手際良く料理した作品とは言えそうな気はする。 

導入部でのこの監督のキャメラの特徴はクローズアップだ。前作(になると思うが)「シカゴ」の時のパターンをここでも踏襲している。それが遊里の隔絶された世界に生きる少女の孤独を異文化の眼にも違和感なく伝えるのに効果をあげたとはいえる。俳優陣も達者だ。桃井かおりは見事な遣りて婆さんを演じた。監督はベテランと売り出し中の中国の二人の女優を競わせ他の俳優陣もキャスティングに成功している。

しかし扇子を振り回す芸者踊りには閉口した。踊りで効果を挙げる狙いは「シカゴ」のパターンを繰り返しただけという不満も残る。歌舞伎を取り込んだのは異国趣味の最たるものだろう。それが後に、この作品が何かの賞で音楽賞だったか踊りの部門で受賞したというのは、「踊り」とは民族性を超えたところでしか国際的には理解されないということなのだろうか、といった疑問も抱かされる。

ここでもチャン・ツィイーは熱演である。「初恋のきた道」は、もう何年前の作品になるのだろう?映画というメディアのクローズアップ技術の非情さをツィイーという女優の変化を見て改めて思い知らされもする。

それより作品の出来はどうか?異文化の一人の女の数奇な人生を、ここまで見事に描いた才能は評価しよう。「ラストサムライ」に比べれば人間が描けていると言えるかもしれない。セットも見事だ。土佐の遊郭は資料を詳しく調べているようにも思われる。あの土佐の遊郭に詳しい宮尾登美子の作品を見事に映画化した五社英雄の「鬼龍院華子の生涯」なども参考にしている風情も感じられる。

ところで「芸者は動く芸術品」といった形容は果たしてどれくらい本気で理解されているのか?また、この作品の異文化の受容例としてレベルはどれくらいだろう?見終わって、強い印象はそれほど残っていないのはアカショウビンの正直な感想だ。それは、この手の作品に抱く個人的な偏見によるものなのか?

有名女優と有名になりかけ俳優を使っての「一丁あがり!」といった仕上がり感がアカショウビンには不満として残ったのである。しかし、それはないものねだりだろうか?

毎日新聞には宮尾登美子さんが「みつめる 昭和八十年」というタイトルで月に1回、自らの生を振り返っておられる。そこには土佐の高知の娘たちの苦界が哀切な叙述で回想されている。宮尾さんの記憶から紡ぎ出される世界のひとつの現実を、米国製のこの作品は良く映像で定着したとは思うのだが、異文化理解の難しさもまた思い知らされるのである。

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