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2005年12月31日 (土)

恕しとは?

 戦後60年が過ぎてゆく。アカショウビンはテレビで今年10月に小澤征爾が広島で行った演奏会のフォーレのレクイエムをテレビで観聴きしながら、その感想を述べてみよう。

 2年前、小澤氏にこの企画を持ちかけた94歳の日野原重明医師は、広島・長崎の過ちを二度と繰り返さないため、あるいは戦争を繰り返さないためには「恕(ゆる)し」を伝えることだと述べる。それはキリスト教的な思想背景を持つものであろう。周知の通りフォーレの作品は深いカトリック信仰から生まれたものだ。だからというわけでもないが若い頃からアカショウビンは、その「砂糖菓子」的な少し甘美に過ぎる音楽があまり好きではない。同じレクイエムならヴェルディかモーツァルトのほうがよほど好きなのである。

 しかし広島・長崎の原爆で亡くなった方々を弔うのにフォーレを選んだ小澤氏と日野原医師の選択は好みを越えて聴くべき音楽でもある。アカショウビンにとって音楽の急所は祈りと哀しみである。その音楽観からすればフォーレは殆どその範疇の音楽だが、不思議と音楽的に共感し難いのはアカショウビンの偏屈なところである(笑)。

 ここで重要なのはフォーレの作品はともかく日野原医師と小澤氏の意図がキリスト教的磁場をどれくらい越えて共感されるかだろう。恕しとは何か。無神論者や仏教徒、イスラーム教徒ほか諸々の異教徒にとって「恕し」という概念はどれほどの価値を持つのか。

 古今東西、ヒトは死者を弔うことで自分達の存在の危うさと貴重さを自覚してきた。そしてキリスト教的死生観の基調にあるのは罪の意識=原罪である。「恕し」とはこの思想から出てくるものだ。無神論者や仏教徒はここで違和を感じる筈だ。戦争の災禍を2度と繰り返さないために「恕し」という概念が果たしてどれほど意味を持つのか。

 これは興味深い問題だ。戦後60年を過ぎても問い続け回答しなければならない問いである。来年は更に愚考を重ねたいと思う。

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受信: 2006年1月12日 (木) 午後 11時13分

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