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2005年11月16日 (水)

洗練と土俗(古型)

 朝崎郁恵さんの「うたばうたゆん」(2003)というアルバムを遅まきながら聴いた。発売当時に読んだ新聞か雑誌の批評は、このアルバムが「大和」の恐らくほんの一部で評判になったことを伝えていた。あらためて聴くと、伴奏の高橋全氏のピアノが洗練された響きで朝崎さんの声に寄り添い、流行りの癒しの役割を果たしているからかもしれない。

 しかし朝崎さんの声に寄り添い、鼓舞し鼓舞され、沈み沈ませ、高く舞い上がり舞い落ちさせる役割を果たしてくれる楽器は蛇皮線なのではないか?だから、このアルバムを聴いて何か言うことがあるとすればこうなる。「洗練と土俗(古型)」。高橋氏のピアノが果たしていると思われる洗練と、あるいは癒しという言葉で徘徊している現象に嘘はないのか?その可能性を探る手掛かりに朝崎さんの声を「土俗(古型)」として対立させる。そこで光があてられないだろうか?

 もちろん、それは高橋さんの演奏を否定することではない。あくまでアカショウビンのとりあえずの立論の役割としてである。この辺のことは後にさらに追求してみよう。

 この問いを立てて迫ってみることは現在の音楽シーンだけでなく、衣裳は変わっても根源的なところでは現在の奄美、琉球(沖縄)、大和が抱えている姿の歪さに光をあてられる可能性をアカショウビンは予感する。このアルバムを聴くと同郷の者として、このくらいは問題提起をしてかからなければ朝崎さんや高橋氏にも失礼だろうと考えるのである。

 朝崎さんの声は、地霊というのか土霊、とでもいうような響きを持っている。それは高橋氏の洗練の誘いにも媚びることなく「存在」の声を響かせる。朝崎さんにとって、それは蛇皮線だろうがピアノだろうが声は「存在」の声を伝えるだけで良い、と割り切っているようにも思われる。歌うでも、唄うでもなく、むしろ「謡う」が、いくらかその声を表すのに近い語感と思える。それは朝崎さんの歌(謡い)が表現の形(フォルム)を確立しているからだろう。

 このアルバムの命は、当時や今でさえそうだろうし、時を経れば恐らく、ほんの一部の人達にしか伝わってはいかないのではないかと思われる。それほど貴重なものという意味を込めてであるが、それは一部の人たちに聴き継がれて、ついには滅びて往くだろうという響きを聴き取るのはアカショウビンだけだろうか?しかしそういった運命をもった記録として100年か200年後に、その価値と「存在」に啓発される人が出てくるかもしれない。それは奄美の人かもしれないしアジアのほかの土地の人かもしれないし地球の反対側の人かもしれない。幽かな期待は持つが、それにしても、それほど、かそけき土俗(古型)という響きが留められた記録だと思う。

  

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