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2005年11月 3日 (木)

人間の言葉

 あるブログにハイデッガーが引用されていた。「人間の言葉は、存在を十分に湛え、存在によって語らしめられるときに本来的なものになるが、そのときの存在の語りには、同時に死の本質が響いている」、と。

 湛えは堪えの誤記ではないかとも思うが、出典はいずれ突き止めてみるとして、これはハイデッガーの洞察が面目躍如している言説である。

 パスカルが言うように、存在(ある)を定義しようとすれば背理に陥らざるをえない。なぜなら、「存在」(ある)という言葉を定義するには、「これは・・・である」というように、明言するにしろ、暗黙のうちに了解しているにせよ、このように始めなければならないのは、定義される言葉を、それの定義の中で用いなければならなくなるからだ。だから、それは背理だ、とパスカルは論理的に主張する。

 これに対しハイデッガーは、次のように自説を述べる。

 じっさい、「存在」を「存在者」として把握することはできない。「存在」には何らかの本性を加えることはできない、という(アリストテレス以来の)古来のテーゼは「存在」はそれに存在する性質を内属させるような形で規定されることができない、と説いているからだ。(中略)しかしながら、このことから、「存在」にはもはやいかなる問題もそなわってはいない、という結論がでてくるわけであろうか。断じて否である。(「存在と時間」第1章第1節 細谷貞雄訳を一部修整)

 こうしてハイデッガーは「存在と時間」という書物を世に問うたのである。しかし一般の哲学史でハイデッガー哲学は「不安の哲学」として一括されるくらいだ。それが10数年前に突然フランスでナチスとの関わりが大きな話題となりジャーナリズムを通して哲学界にもハイデッガーが再登場してきた。

 冒頭の引用が、なぜハイデッガーらしいかと言うのはハイデッガーが「存在と時間」の中で用いた、人間(現存在)という生き物は死を「先駆的に覚悟する存在者だ」、と主張するハイデッガーの思考をよく表しているからだ。このようなハイデッガー独特の言い回しは後半生にいろいろな形で現れる。ところが、それがまた難解で、その言葉をめぐって事情は更に複雑化する。アカショウビンは「待望の光明」というタイトルで、このハイデッガー独特の思考の一端を以前に紹介した。参考になるかどうか責任は持たないが(笑)、ご参照いただきたい。

 引用されたのは最近の政治情勢をめぐる党派的な罵り合いの中でである。みなさん、もう少しレベルの高い議論をしましょうね!といったところで引用しているのである。しかしハイデッガーを引用しても情勢論では1930年代のハイデッガーを見れば如何に不毛であるかは引用者も恐らくわかっている筈だ。

 ハイデッガーは西洋哲学2千数百年を俯瞰したうえで、カント以降の近代哲学の逸脱を修整しこれを転倒させようと「存在」を思索した人物である。存在論を前々世紀から、前世紀に橋渡しした功績は未だ充分に論議しつくされたわけでもないように思う。それは友人でライバル(?)のヤスパースや、レヴィナス、アーレントらの弟子達、サルトルやデリダなど彼の強い影響を受けた人々、また我が国の木田元氏らの思考を辿れば明瞭だろう。池田晶子さんが説くように、この世紀は認識論の世紀といくわけにもいくまいと思う。未だに存在論は地球に生息する人間が解決してはいない(出来ない?)難問ではないのか?

 

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