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2005年11月 3日 (木)

フェリーニ!

 DVDで一枚千円というのは、これは安い!と迷わず買いこみ、実に何十年ぶりかでフェリーニの「ローマ」を見直した。最初に観たのは池袋の文芸座(!)だったろう。十年くらい前だろうか、たまたまどこかの映画館でかかっていて見直した。その後、去年や今年、久しぶりで行った現在の新文芸座は名残はあるが、かつての姿は殆ど留めていない。ツキヒハ、ヒャクダイノカカクにして元の水ではないのだ。

 30数年前、アカショウビンの大学は新宿の将棋道場と旧池袋文芸座だった!DVDには小さな文字で1972年と記載されている。すると、何と、ほぼ同時代で観たのか!? あぁ、何と幸せなアカショウビン君!あの頃のアカショウビンにとって映画とはフェリーニだったのだ!

 ところが見直して覚えていたのは幾つかのシーンだけとは!実は、昨夜見ながら眠気に勝てず途中で静止させたまま眠り込んでしまった(笑)。何が映画とはフェリーニだ(笑)!冒頭の部分は殆ど記憶に残っていない!まるで初めて観たような印象だった。しかし、それくらいフェリーニは退屈で面白い。それは逆説ではない。それくらいフェリーニには学生時代にハマッた。「サテリコン」を見て、これは当代随一と判じた。しかしそこには未だ物語があり、西洋の歴史絵巻が壮大に描かれていた。「アマルコルド」の語りは志ん生の落語を聴くのと同じように笑い、シンミリさせられ、あぁ、本当に人間というのは彼の国でもそうなのか!と膝を打った。若いアカショウビンは完全にフェリーニにイカレたのだった。それが「ローマ」に至って物語性はどうでもよくなっている。かつて流行したフランス思想風にいえば、若かりし頃の作風をフェリーニは「ダツコウチク」しているではないか。

 初期のフェリーニは、それなりのストーリー・テラーだった。「道」には、誰もが感動したのではなかったか。ところが1972年のフェリーニは物語ることはしない。映像作家という人種は歳を経るにしたがって物語を語るのに飽きてくるようなのだ。巨匠たち(というより誰でもそうか)の晩年は次第にエピソードの羅列というか夢の再現のようなものになる。キューブリックもフェリーニも、そして我がクロサワも!その伝えたい何かというものの殆どはフツーの観客に伝わりはしない。しかし凡百の批評家は薀蓄を語る。金銭と名声欲と保身のために。

 そういう作家の変遷と成熟と行き着く先を見ると映画監督というか映像作家というのも因果な商売だと思うのである。精魂傾けて、あれこれ工夫しながら作品を紡ぐのが徒労とならないのは若い頃だけかもしれない。次第に心身は衰え、よく言えば力を抜くことを覚え、手抜きと髪一重のところで芸を見せる。その精魂が批評家に料理され辛うじて残ったのが名作として後世に伝わる。嘘と神話になる運命のものを彼は自分の感覚を研ぎ澄まし、観客の視線を意識してかしないでか比較考量し作品をまとめる。クロサワもキューブリックもそうだったろう。 映像の香辛料に台詞、音楽を使いながら。久しぶりに観たフェリーニはアカショウビンにとって新たな相貌で再登場してきた・・・。

 よし!こうなったら休日は休む。仕事なんか絶対しない!・・多分・・・(笑)。だから、ついでに買った「ミッドナイト・エクスプレス」と「地獄に堕ちた勇者ども」を何十年ぶりに観直すのだ!その後は「キス・ミー・ケイト」と「巴里のアメリカ人」のダンスを見ながら楽しく休日を過ごそーッと。

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