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2005年11月13日 (日)

歌姫(2)

 「歌姫と」は、どういう存在か?中島みゆきはアカショウビンが物心がついてからの歌姫である。しかし、それと異なる歌い手がある。と思うのはアカショウビンの故郷の歌者(うたしゃ)である朝崎郁恵さんが、きょうの午後のテレビで子供達に歌を伝えている姿を見てそう思った。アカショウビンは島の風景と島の人々の言葉の懐かしさを聴いて思わず見入ってしまった。

 それは血というのか、生まれ育った風土を共有するものにしか聴き取ることはできそうもない、風と匂いと言葉の響きだ。

 島歌とは、かつて流行った「島歌」ではない。琉球、奄美の島歌には、哀しみと恨みと、ささやかな喜びを声に託して伝える「存在」の「声」がある、それが島歌なのである。大ヒットした曲には、そのささやかな喜びを声にする爽快感はあっても恨みと哀しみがない。しかし、そこが肝心なところなのである。音楽に国境はない、と言う、ありふれた言説を疑う時がある。テレビで朝崎さんが子供達に伝えようとする歌の拍子、イントネーションは奄美で生まれ育った者にとって、そういうしかない調子と響きを持っている。

 そう思うのは、ハイデッガーが「存在と時間」の中で現存在の「良心の呼び声」を分析するのと同じ手法で試みてみれば何か少しは理解できそうな気がするのだが、これは後の課題だ。

 島の子供達に語る「ただ歌っていれば、そのうちわかる(取意)」と話しかける朝崎さんの言葉には彼女の人生と伝えようとする何かが込められている。その様子を見ていると、まるでそれは自分の血を刺激された思いがした。それは恐らく歌と語りと言葉の力である。

  ヒトの生には偶然とは思えない出会いがある。アカショウビンは運命論者ではないが、たまたまの経験が何か必然性を帯びていると思える場合がある。それは人でもあれば、風景でもあり、映像、音、言葉の響きでもある。そのとき、ヒトは触発され、齟齬し、共感し、鼓舞される。

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