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2005年10月29日 (土)

精神と変換力

 かつてポール・ヴァレリーは、「精神」が無秩序から秩序を作りだそうとするものである以上、「精神」には、いわば独裁を方法的に志向しようとする傾向のあることを指摘した。(準・政治的試論)。ここで「独裁」という語には第一次世界大戦を経たヴァレリーの経験が込められている筈だ。それに対し彼は「精神」の獲得した、もう一つの能力である、自分自身の意識によって、自己をすべての事物から引き離すことが出来るばかりか、自分自身からも引き離すことが出来るという能力、いわば「変換力」として「精神」を対比させることで、いわば「精神」の「精神」とでも言うべきものを作り出さねばならないと語っていた(@清水 徹氏)そうだ。

 これはさらに再考してみたくなる思考である。そこはロスの言う「知」や「霊」の生ずる領域とも関係しているのではないか。ロスの語る「霊的な」という言い方はキリスト教的な磁場の中で語られていると思われるが、それは洋の東西を問わない実に興味深い報告のように思う。また、それは明晰で怜悧なヴァレリーが説明しようとしている領域とも密接に相関しているように思われる。

 さて、その領域までアカショウビンは果たしてどれくらい踏み込めるのだろうか?

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