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2005年10月 8日 (土)

音、あるいはモーツァルト

  音とは何か?先日読んだ井上太郎氏の「日本人とモーツァルト」という新書を読みながら、そう問うてみよう。

 そこで井上氏は、音楽批評家の遠山一行氏が若い頃、「音楽」という言葉にこだわりをもっていたのが、留学先のフランスで見たモーツァルトの「フィガロの結婚」でスザンナを歌ったリタ・シュトライヒという歌手の歌を聴いて忽然と理解したという逸話を紹介している。井上氏は小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、吉田秀和、遠山一行らのモーツァルト観を紹介しているがアカショウビンは遠山氏のモーツァルト観がとても興味深かった。

 それは小林秀雄が「モーツァルト」のなかで、若いころに大阪は道頓堀で経験したという例の有名な話とも一脈通じるように受け取られる。小林の経験とは、若い頃、道頓堀を彷徨っていると突然モーツァルトの交響曲・第40番がどこかから聞こえてきたが実際にそのような音は聞こえてはいなかった、というものだったはずだ。

 遠山氏は小林の「モーツァルト」には批判的ながらも一応の敬意は表している。吉田秀和氏は小林秀雄とは身近な付き合いだったからでもないだろうが殆ど絶賛といってもよく、大岡、河上らの小林秀雄の周辺の、小林の人となりをよく知る人々の評価で、あの著作の価値はほぼ固まったともいえる。しかし、戦前のベートーヴェン好きから一転して戦後はモーツァルト好きが急激に増えて今やほぼ逆転したかに見える日本での西洋クラシック音楽の受容のされかたのなかで小林秀雄のあの作品がはたした役割が実に大きいのは誰もが認めるところだろう。もちろん、あの名著と目される作品の読まれ方が様々なのは、最近復刊した高橋悠治氏の1970 年代の論評を読むと、礼賛だけでなく鋭い批判もされているのがわかる。それについては後日、論じてみるつもりだ。

 それはともかく、ショパン研究で一家を成した遠山氏のモーツァルト観はとても興味深いものだった。リタ・シュトライヒというソプラノの歌から忽然と音楽の自由さを「悟った」と言うほうがぴったりする氏の体験はアカショウビンも共感する。リタ・シュトライヒというソプラノは実演はともかく録音ではフリッチャイの「魔笛」の夜の女王などを聴くと、決して傑出した歌い手とアカショウビンには思えない。むしろ舞台で映えるタイプのソプラノではないかと邪推する。遠山氏もおそらく歌唱の素晴らしさというより舞台での魅力でスザンナという役柄が演じられてもいいのだ、という吹っ切れ方をしたのではないかと思う。それが彼女の歌を聴いたとき「心の中の音楽という虚像を一挙にして吹き払ったのである」と語る氏の感想になっていると思うのだが。

 また言う。「音楽なんてものはどこにもありはしないのだ。ただメッセージを伝えようとする音楽家の強い意志があるだけだ」。まったく同感だ。

 それにしても、音とは何か。「音楽」と私達が日常何気なく使っている語彙の実体を考えてみると、遠山氏のこだわりは確かに思い当たるところがある。「音楽」はおそらく西洋語の翻訳だろう。井上氏は、遠山氏がヨーロッパで「他者」という概念に出会ったのではないか、と書いているが、ドイツやフランス、イタリアなど西洋クラッシク音楽の本場での音楽の受容のされ方は異国文化の日本人として本質的な問いを投げかけてきたものと思われる。

 音楽とは何か、音とは何か。モーツァルトを聴くと確かに強く、そのような問いが浮かんでくるのである。

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