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2005年9月21日 (水)

自力と他力

先の五木氏が説明している「他力の思想」についてさらに考えてみよう。そこで先の引用を再掲させていただく。

「仏は自分から近づいてきて衆生の袖をつかんで自分のほうに引き寄せるのだ、という思想である。自分がアンガージュしたように見えても、じつはそうではない。向こうから引き寄せられたのだ、と言うのである。こちらから近づいていって、『お願いします』というのではない。むこうから手をのばして引き寄せ、この手につかまれ、と呼びかけるのだ、というのが『他力』」思想である」。

これは実に魅力的な説明ではある。門外漢にとっては、念仏を唱える姿の外観から理解する弱々しい思想などではない、「逆説」というより、それが「仏法」の真髄とでもいうしかない領域を明らかにしている思想のようにも思われる。

これに対しアカショウビンは、道元の「自未得度先渡他」という言を引いて、あるいは「只管打座」という座禅による「自力」の思想とも見える道元の思想を、仮に、法然や親鸞の「絶対他力」の思想の対立者として捉えてみた。

ところが道元は次のようにも言っているのが面白い。

正法眼蔵の「仏性」の巻で道元は禅の始祖たちが仏性のあるなしをどのように説いてきたかを辿りながら次のように述べる。これは道元が宋に渡ったとき彼の国の仏教者たちの姿を皮肉りながら述べている箇所である。

「おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は廃せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道取を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔儻の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。」(岩波文庫「正法眼蔵」(1)p105106

「いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて」は石井恭二氏の訳によると「ひとの念慮によって覚れるものだという考えから抜け出せないことから」となっている。これは自力というよりむしろ他力とは読めまいか。また石井氏の訳では「聴教」とは「仏典の教えのみを学ぶという修行」である。ここで道元は「ただ座れ」という参禅のみに固執していない。こういうところは道元の思想の自在なところである。

道元の言い方を借りれば「自力とか他力にこだわっていては仏法を理解できない」ということにでもなるだろうが、それはともかく最澄、空海から鎌倉仏教までの日本で展開された大乗仏教において自力・他力という概念が法然、親鸞によって極度に重要な概念になったことは確かだ。

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