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2005年9月25日 (日)

斎藤秀雄という教師

 斎藤秀雄とは、小澤征爾氏率いる「サイトウ・キネン・オーケストラ」の名前の由来になった音楽教師である。氏は指揮者の小澤氏や秋山和慶氏の他にも多くの優れたソリストたちを育て、日本のクラシック音楽にとって計り知れない大きな功績を残した。

 昨日、「斎藤秀雄メモリアル」というDVDを買って見た。斎藤秀雄の伝記は平成14年に文庫になった「嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯」(中丸美著 新潮社)に詳しいが、 このDVDを観ると、かけがえのない師と弟子の曰く云いがたい関係の一端がわかる。斎藤秀雄という師匠は弟子たちにとって実に怖いけれども限りなく優しい人だったことが小澤氏の話や教え子達それぞれの思い出から伝わってくる。師の思い出を語る弟子達の話を聞くと、かけがえのない教師を持った人々の幸せを痛感する。

 アカショウビンは小澤征爾という指揮者が好きである。日本のクラシック音楽ファンや評論家の多くには決して好ましく評価されているとも思われない小澤征爾という指揮者だがアカショウビンは人となりも音楽も好きなのである。特にビゼーの「カルメン」のCDはレーザーディスクでメイキングも見て楽しんだ。タイトルロールのジェシー・ノーマンはじめ録音のプロセスを通して小澤氏の音楽作りの一端を見て共感するのである。その音楽作りは師のカラヤンともバーンスタインとも違う、小澤征爾という個性が作る音楽でしかないことがわかるからだ。

 小澤征爾という指揮者はクラシック音楽に興味を持ち出した中学生の頃に知った。日本を代表する世界的指揮者という本を読み以来関心を持ち続けてきた。その氏がウィーン国立歌劇場の音楽監督になったというのは西洋古典音楽のファンなら、それがどんなにすごい事かわかる筈だ。しかし、そういった事よりアカショウビンが特に関心を持つのは、小澤氏が指揮者になれた恩を、斎藤秀雄という師のおかげ、と明確に自覚している点である。小澤氏の感性と資質もさることながら「音楽」と、どのように対峙すればよいか、という姿勢を師から骨の髄まで叩き込まれたことを氏は全身全霊で語り、自分の音楽として、それを表現する。その才覚が西洋クラシック音楽界の中核とも言うべきウィーン国立歌劇場の音楽監督として迎え入れられた理由の一つだと思う。日本人として実に誇りであり喜ばしい。

 この映像を見れば、小澤氏や教え子達が語る数々のエピソードから教えられ、思い当たり、学ぶ事は多い。それは、先のブログに書いた道元が天童古仏と敬した師の如淨との関係、あるいは弟子の懐奘との間柄を彷彿させる。アカショウビンも、教育とは、人間とは、音楽とは、などいろいろな事を考えさせられた。また、この映像の中で秋山和慶氏が指揮した、中丸氏の著書のタイトルにもなっているモーツァルトの嬉遊曲K136の演奏が素晴らしかったことは特筆しておきたい。実に清澄で生き生きした、音楽することの楽しさと幸せが演奏者の表情からも見てとれるからだ。

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2005年9月21日 (水)

自力と他力

先の五木氏が説明している「他力の思想」についてさらに考えてみよう。そこで先の引用を再掲させていただく。

「仏は自分から近づいてきて衆生の袖をつかんで自分のほうに引き寄せるのだ、という思想である。自分がアンガージュしたように見えても、じつはそうではない。向こうから引き寄せられたのだ、と言うのである。こちらから近づいていって、『お願いします』というのではない。むこうから手をのばして引き寄せ、この手につかまれ、と呼びかけるのだ、というのが『他力』」思想である」。

これは実に魅力的な説明ではある。門外漢にとっては、念仏を唱える姿の外観から理解する弱々しい思想などではない、「逆説」というより、それが「仏法」の真髄とでもいうしかない領域を明らかにしている思想のようにも思われる。

これに対しアカショウビンは、道元の「自未得度先渡他」という言を引いて、あるいは「只管打座」という座禅による「自力」の思想とも見える道元の思想を、仮に、法然や親鸞の「絶対他力」の思想の対立者として捉えてみた。

ところが道元は次のようにも言っているのが面白い。

正法眼蔵の「仏性」の巻で道元は禅の始祖たちが仏性のあるなしをどのように説いてきたかを辿りながら次のように述べる。これは道元が宋に渡ったとき彼の国の仏教者たちの姿を皮肉りながら述べている箇所である。

「おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は廃せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道取を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔儻の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。」(岩波文庫「正法眼蔵」(1)p105106

「いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて」は石井恭二氏の訳によると「ひとの念慮によって覚れるものだという考えから抜け出せないことから」となっている。これは自力というよりむしろ他力とは読めまいか。また石井氏の訳では「聴教」とは「仏典の教えのみを学ぶという修行」である。ここで道元は「ただ座れ」という参禅のみに固執していない。こういうところは道元の思想の自在なところである。

道元の言い方を借りれば「自力とか他力にこだわっていては仏法を理解できない」ということにでもなるだろうが、それはともかく最澄、空海から鎌倉仏教までの日本で展開された大乗仏教において自力・他力という概念が法然、親鸞によって極度に重要な概念になったことは確かだ。

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2005年9月13日 (火)

映画「憂國」

 三島由紀夫が監督した映画「憂國」のネガが見つかったことは最近の新聞で読んだ。きょうの毎日新聞夕刊には米本浩二氏の署名入りで詳細が記事になっている。

 そこで米本氏は三島が自作を次のように解説していた(「製作意図及び経過」)と書いている。

  「自然のなかにおける人間の植物的運命の、昂揚と破滅と再生の呪術的な祭式に似たもの」を目指した、と。

 「自然のなかにおける人間の植物的運命」と書くところに目が止まる。三島の人間観、世界観が何となくわかるような気がしないではない。モノクロ28分の映像はどんなであろう。興味はある。

 台詞はなく簡素な能舞台で演じられ音楽はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」という。レコードを使ったのなら多分三島が好きだったろうフルトヴェングラーの盤ではないか、などと好奇心はムラムラ湧く。

 アカショウビンは昭和44年、鹿児島市の天文館の立て看板で映画のポスターを観た記憶がある。映画は観なかったが三島由紀夫の名は「潮騒」や「金閣寺」くらいで知っていた。看板の脇で勝共連合の若者がマイクでアジっていたのではなかったか。あの時代は今とあまりにも違い大学や高校でも政治と思想、それに文学が熱く昂揚していたな。

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2005年9月 9日 (金)

リヒテル

閑話休題。アカショウビンの日常に音楽は欠かせないビタミンだ。この夏はジャズのビッグバンド、モダンジャズ、西洋古典音楽、日本ポップス、ハードロック取り混ぜて暑さを凌いだ。その中で特に面白かったのがリヒテルのCDだった。

リヒテルがピアノ曲の旧訳聖書とも奉られるバッハの平均律クラヴィーア曲集1巻を録音したとの鳴り物入りでの予告にワクワクし早速買い求めたのは30数年も前の頃だ。貧乏学生がアルバイトの金を貯めて買った決して高級な再生装置ではなかったが、レコードに針を落としたとき当時の吉田秀和氏が「リヒテルは神と対話しているようだ」とのレコード評がワクワクの理由だったことは白状しよう。

アカショウビンは柳家小三治師のようにレコードをターンテーブルに載せるとき白手袋はしなかったが(笑)再生装置に対面し正座して聴いたものだ(少し脚色もある)。聴き終わり、吉田先生の評は決して誇張ではない、と納得した。その後、名盤の誉れ高いベートーヴェンの「テンペスト」ソナタや他を聴いたが、バッハほど深く動かされることはなかった。(鈍感な、という陰の声も聞こえるが)

昨年か今年になってか、たまたま、これまた名盤の誉れ高い、ボロディン弦楽四重奏団とのシユーベルトのピアノ五重奏「ます」(1980)と、こちらは果たして批評されているのかどうか未知の「幻想」ソナタ(1978年5月3日のライブ)を買った。これを聴くと改めて凄いピアニストであることを思い知る。それ以来、この夏は流行のハードディスクタイプの録音機に録音し何度も聴いている。前者の第2楽章アンダンテと後者の第1楽章モルト・モデラート・エ・カンタービレを聴けば、リヒテルの底知れない懐の深さがわかる。「ます」での悠然として、たっぷりと音を響かせるのは、いかにも巨匠風だが、まったく嫌味のない、実に自然体の音楽だ。それより凄いのが「幻想」である。この曲はシューベルトの他の馴染み深い作品や晩年のピアノ・ソナタに比べてアカショウビンはあまり聴く機会が少なかった作品だった。

ところがリヒテルで聴くと、こんなに深遠な作品だったかと驚く。たまらずブレンデルの新録音、田部京子、内田光子、ルプーを購入し聴いてみた。いずれもリヒテルに及ばない。これはスコアのリピートの関係なのかわからないのだが演奏時間がまるで違う。リヒテルが26分18秒に対し、ブレンデルは17分16秒!比較的遅い田部でさえ20分15秒である。演奏については田部、内田はまだしも、ルプーにいたっては児戯に等しい解釈というしかない。

シューベルトの音楽には見え隠れする恐ろしい深淵がある。それを心底思い知らせ、ただただ全身全霊を耳と精神に集中させ聴き入らせるのはリヒテルの演奏だ。

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